シカゴのアーティストが作り出したハウスミュージックが、イギリスを中心にヨーロッパで人気を集めていた頃、ニューヨークでは時間が止まっていたわけではありません。
<Paradise Garage(パラダイス・ガレージ)>のLarry Levenから強い影響を受けたDJたちによって、ハウスミュージックはニューヨークで進化を遂げます。そして、ヨーロッパを中心に広がった世界的な流行の波に乗り、90年代に黄金期を迎えます。
ハウスはシカゴのクラブ<The Warehouse>や<The Musicbox>から誕生し、Trax、DJ Internationalなどのレーベルによって制作され、ロンドンのレイブカルチャーが世界に広がるためのきっかけとなりましたが、ニューヨークのアンダーグラウンドカルチャーとダンスミュージックレーベルがそれに新しい次元を与えました。
90年代のDJは、一流のミュージシャンや作曲家などとも交流があり、チームを結集してトラック制作を行うことも多くありました。ヒップホップのサンプリング手法を取り入れたリズム、ファンキーなトライバル、ソウルフルでスピリチュアルなトラック、ゴスペルを取り入れたジャージーサウンド、ハードさを追求したハードハウスなど、多くの新たなハウスミュージックのスタイルが誕生しました。
<Paradise Garage>なきあとの彷徨えるダンサーたちをニュージャージーの<Zanzibar>が鎮め、ニューヨークハウスの先駆者となったTodd Terryの登場がハウスミュージックの発展の決定的なきっかけを作り、Masters At Workはジャンルの壁を打ち壊してハウスミュージックの枠を拡大させました。
Def Mix Productionsはアンダーグラウンドだったハウスミュージックをメジャーシーンへと押し上げ、<Sound Factory>では、Junior Vasquezが3000人を収容するスーパークラブで神と形容されるほどの存在になり、Strictly RhythmやNervous Recordsといったレーベルは、インディペンデント・レーベルとは言えないほどに影響力を高めました。
90年代半ばまでには、ニューヨークのハウスは世界で確立されたものになっていました。ハウスミュージックというフォーマットが、当たり前のものとして存在し、ローマ、ベルリン、東京など、世界のどのレコードショップに行っても、ニューヨーク産のハウスミュージックのCD、レコードが陳列されていました。
Zanzibarのジャージーサウンド
ニュージャージー州ニューアークにある荒廃した一帯に位置する<Holiday Inn>というホテルが買収され、新たに<Lincoln Motel>がオープンした際に、その中にある小さなバー兼ナイトクラブだった<Abe’s>を改装して、1979年にオープンしたクラブが<Zanzibar(ザンジバー)>でした。
<Zanzibar>は不動産オーナーのMiles Bergerが、<The Loft>や<Paradise Garage>のサウンドを手掛けたRichard Long(リチャード・ロング)に連れられて行った<Paradise Garage>に感銘を受けたことがきっかけで作られました。
そのため、Richard Longが設計したサウンドシステムが導入されましたが、クラブの大きさは<Paradise Garage>の半分ほどだったため、<Paradise Garage>をしのぐほどのクリアでパンチのある強烈なサウンドになったそうです。
最初は、R&Bがプレイされていましたが、やがてディスコミュージックがプレイされるようになり、Larry Patterson(ラリー・パターソン)やTee Scott(ティー・スコット)のようなDJがプレイするようになりました。
その後、Kiss-FMのパーソナリティーだったTony Humphriesが<Zanzibar>をとても気に入り、Larry Pattersonと交渉した結果、1982年にTony HumphriesがレジデントDJに加入することになりました。
水曜日にTony Humphries、金曜日にLarry Patterson、土曜日にTee Scottがプレイしていましたが、Larry Pattersonが亡くなったことにより、Tony HumphriesがメインのDJを引き継ぐことになると、<Zanzibar>は新しいソウルフルなエレクトロニック・サウンドの代名詞となり、ニュージャージーのサウンドを略して、”ジャージー・サウンド” と形容され人気が高まりました。
<Zanzibar>は<Paradise Garage>と協力して、Chaka Khan、Sylvester、Thelma Houston、Roy Ayers、D-Train、Peech Boys、Phyllis Hyman、Gayle Adams、Loletta Hollowayなど多くの優れたアーティストを招聘していました。
1987年に<Paradise Garage>が閉店したあと、多くのダンサーたちはニュージャージーのクラブ<Zanzibar>へ向かうこととなり、Tony HumphriesがNYエリアのクラブシーンを牽引しました。
ハウスミュージックにサンプリング手法
ニューヨークのハウスミュージックが注目されるきっかけとなったのは、Todd Terry(トッド・テリー)が登場したことでした。Coney IslandとBrighton Beachで生まれ育ったTodd Terryは、<Paradise Garage>のLarry LevanのDJテープや、当時のヒップホップに影響を受けていました。
Todd Terryは友人たちにラップをしてもらうためにビートを作り始めましたが、興味を持ってくれるレーベルを見つけることができませんでした。そこで、クラブで流れ始めるようになっていたハウス・ミュージックに手を出してみることにしたそうです。
Roland TR-909でビートを組み立て、ジョークのつもりで、人気のあるハウス・レコードをいくつか組み合わせて、重ねてみることにしました。ヒップホップの制作では当たり前であったサンプリングという手法をハウスミュージックに用いた「Party People 」と題されたこのデモを、ブルックリンの小さなレーベル<Idlers>に売り込んだところ、次の日に契約が成立しました。
1988年にRoyal House名義でリリースした「Can You Party」は大ヒットし、<Idlers>と契約していたラッパー、Jungle Brothers(ジャングル・ブラザーズ)がこの曲をそのまま使ってラップしたリミックス的な作品「I’ll House You」では、ハウスだけでなくヒップホップのクラブでもヘビーローテーションされました。
Jungle Brothers – I’ll House You
ハウス・ミュージックは作りやすいだけでなく、売りやすいものだと気づいたTodd Terryはヒップホップのプロデューサーのようにサンプルをレイヤーしたり再構成し、ハウスミュージックの制作に力を入れ始めました。朝起きて、ビートを作って、音楽を作って、その夜には完成していることもあり、Todd Terryの最大のヒットとなった1995年のEverything But the Girlの「Missing」のリミックスは1日半で完成しました。
Everything But The Girl – Missing (Todd Terry Remix)
こうして、Todd Terryはハウスミュージックにサンプリングの手法を初めて取り入れた第一人者として、国内だけでなく、ヨーロッパからゲストDJとして招かれるなど、ニューヨークのハウスミュージックが世界に広がるきっかけとなったアーティストとなりました。
Masters At Work
Masters At Workの始まりはTodd Terryが、Kenny “Dope” Gonzalezに”Little” Louie Vegaを紹介したことからでした。
Kenny Dope(ケニー・ドープ)はヒップホップのプロデューサーで、サンプルをベースにしたクラブ・トラックを制作していて、Kenny Dopeが行なっていたストリートパーティーにTodd Terryがよく遊びに来ていました。
Todd Terryはすでにハウスミュージックの制作を行なっていて、Louie Vega(ルイ・ベガ)とも知り合いでした。ある日、Todd Terryを通じてKenny Dopeの制作したトラックをLouie Vegaが耳にしました。<Atlantic Records>と契約を結び、リリースを控えていたLouie Vegaは、Kenny Dopeに「ビートを作りに来ないか」と連絡し、そこから2人は本格的に仕事を始めることになりました。
「Masters At Work」という名はもともとはKenny Dopeが行なっていたストリートパーティーのクルーの名前でしたが、1987年にTodd Terryが「Alright Alright」と「Dum Dum Cry」をリリースする際に、Kenny Dopeから「Masters At Work」の名を借りて別名義という形でリリースしました。
しかし、1990年にKenny DopeとLouie Vegaがプロダクションチームを結成することになったため、「Masters At Work」の名をTodd Terryから返してもらい本格的に活動を開始し、ハウス、ヒップホップ、ファンク、ディスコ、ラテン、アフリカン、ジャズなど、ありとあらゆるものをミックスし、何百ものオリジナル作品、リミックス、サイドプロジェクトを含む作品を生み出し、クラブでの音楽のあり方を再定義する存在となりました。
Masters At Workのリミックスワークは既存の曲を豪華なものにするのではなく、ボーカルの痕跡だけを残して新たに作り変えられました。すぐにニューヨークのトップDJたちはB面に収録されたMAWのリミックス12インチを購入するようになり、Louie Vegaは「誰もが欲しがっていて、マドンナでさえ欲しがっていた。」とのちに語っています。
Def Mix Production
ブルックリンで生まれ育ったDavid Morales(デビッド・モラレス)はブルックリンのクラブ<Ozone Layer>でレジデントDJを務め、<Paradise Garage>でLarry Levanの代役を受けることもありました。その後、<Zanzibar>でのレジデントとして、Tony Humphriesと一緒にプレイするなど人気を集めました。
その後、David Mancusoと共にレコードプールを運営していた女性実業家のJudy Weinstein(ジュディ・ワインスタイン)と、すでにシカゴのレジェンドとなっていたFrankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)を加え、3人でDef Mix Productions(デフ・ミックス・プロダクションズ)を設立し、活動を開始しました。
Def Mix Productionsはリミックスの概念を変えました。Def Mix Productions登場以前は、リミックスをする時は元の素材を使って仕事をしていました。しかし、Def Mix Productionsの制作はミュージシャンをスタジオに連れてきて、オーバーダビングして、音楽もトラックも全部作り直していました。 最終的には、Mariah Carey(マライア・キャリー)が1993年の 「Dreamlover 」のボーカルをリミックスのために録音し直したように、アーティスト自身もこの活動に参加するようになりました。
Mariah Carey – Dreamlover Def Club Mix
“リミックス”はもはや “オリジナル”の拡張版ではなく、それ自身がクレジットと報酬に値するものとなり、DJ /リミキサーに「Remix Produced By」というクレジットが与えられるようになりました。1995年までにDef Mix Productionsはマイケル・ジャクソンの「Scream」のような曲をリミックスするために8万ドルの収入を得るほどになっていました。
Mariah Carey、Aretha Franklin、Michael Jackson、Janet Jackson、Eric Clapton、Pet Shop Boys、U2、Whitney Houston、Jamiroquaiなど、そうそうたるメジャーアーティストのリミックス作品を手がけ、Def Mix Productionsはハウスミュージックをアンダーグランウンドな音楽からメジャーな音楽へと引き上げる一翼を担いました。
Sound FactoryとJunior Vasquez
1989年にオープンした<SoundFactory>は、マンハッタンのチェルシー地区にある治安の良くない倉庫街にありました。それは巨大でシンプルな空間でしたが、音楽の力によって小さく親密なものになっていました。フルーツ、クッキー、冷えた水、コーヒーは無料でもらえ、入り口には数百ドル相当の花が飾られ、毎週新鮮な装飾が施されていました。
出口にはいつもコンドームの入った巨大なボウルがあり、電話番号を交換するための鉛筆やメモ帳が山積みになっていました。そして音楽は、<SoundFactory>のどこにいてもダンスフロアの音が聞こえない場所はありませんでした。
<Paradise Garage>でLarry LevanのDJプレイに心酔し、音楽の道へ進むことになったJunior Vasquez(ジュニア・バスケス)は、クラブ<Bassline>で知名度を確立したあと、<Sound Factory>で1989年から1995年の閉店までレジデントDJとして、毎週土曜日の夜に3000人もの観客に向け10時間ものプレイを行なっていました。
Junior Vasquezは、リズム、テンポ、スタイルを変えながら、何時間もドライブするような容赦のないグルーヴを作り続けることができました。クラブの観客からはほとんど見えないDJブースの中に閉じこもって神秘性を育んでいて、それがJunior Vasquezをより神のような存在にしていたと言われています。
音楽スタイル、個性、そして毎週日曜日の朝に開催されるアフターアワー・パーティーを愛するファンたちが、Junior Vasquezをニューヨークで最も人気のあるDJの一人にするのに時間は掛かりませんでした。C+C Music Factory、David Morales、Björk、Marilyn Manson、Madonnaなど多くの歌手やミュージシャンが、<Sound Factory>の日曜日の朝のイベントに頻繁に遊びに来ていました。
その後すぐに、大手レコード会社がJunior Vasquezにクラブ向けのリミックスの制作を依頼するようになり、トップシンガーのためのリミックスを制作するようになりました。レーベルからの需要が高まったため、多くの人気アーティストと仕事をしたことで、市場に出回っていないエクスクルーシブなリミックスのレパートリーを作ることができ、それによって<SoundFactory>のイベントでしか聴くことができないトラックが、Junior VasquezのDJをさらに特徴的なものにしていました。
1995年2月に<Sound Factory>が閉鎖された後、Junior Vasquezは<Tunnel>(1995-1996年)と<Palladium>(1996–1997)でレジデンスを行った後、1997年、<Sound Factory>跡地に出来た<Twilo>の土曜日の夜にプレイしました。
<Twilo>は、アメリカのDJよりもヨーロッパのDJを招聘するというコンセプトをいち早く導入していました。 Sasha & John Digweed、Paul van Dyk、Carl Cox、Steve Lawler、Paul Oakenfold、Pete Tong、Sven Väthなどがプレイしました。
<Twilo>では専用の特注DJブースに、Phazonと呼ばれる最新鋭のサウンドシステムが設置されました。このサウンドシステムは、Steve Dash(スティーブ・ダッシュ)が設計し、当時はこの会場だけのものでした。その音質の良さが高く評価されていて、DJの中には、DJブースから一瞬離れて、お気に入りのレコードをダンスフロアで聴くDJもいたといいます。このサウンドシステムは最終的に <Club Shelter>に売却されました。
<Twilo>は2001年5月に市の命令で会場が突然閉鎖されるまで続きました。
Body & Soul
Body & Soulは1996年にFrancois K(フランソワ・ケー)とJohn Davis(ジョン・デイビス)によって設立されました。
ニューヨークのトライベッカ地区にあるクラブ<Vinyl>で行われていた日曜日の午後のパーティーは、最初は50人ほどのパーティーで、友人たちを招いて好きなようにプレイすることが目的のパーティーでしたが、瞬く間にニューヨークで最も尊敬されるウィークリーパーティーの一つとなりました。
レジデントである3人のDJ、Danny Krivit(ダニー・クリビット)、Joe Claussell(ジョー・クラウゼル)、Francois Kの3人は、有機的でスピリチュアルなダンスミュージックのグルーブを独自のソウルフルなミックスで披露し、ニューヨークハウスの旗手となりました。
Francois Kのエレクトロニック・ミュージックでのキャリアは、70年代後半のニューヨークのクラブや、ディスコ・レーベル<Prelude>での活動にまで遡ります。80年代にはヨーロッパのエレクトロ/ニューウェーブ・シーンで多くのレコードをミックスし、90年代には自身のレーベル<Wave Music>を立ち上げました。現在までに約1,000枚のレコードでミキサーとして参加し、DJとして、またプロデューサーとしてエレクトロニック・ミュージックの側面を探求しています。
Danny KrivitのプロDJとしての地位は、70年代にニューヨークの音楽の中心地であり、DJのメッカでもある<The Loft>から始まりました。そこでLarry LevanやFrancois Kとの長期的なコラボレーションを始めたのが始まりです。ディスコのリエディットで有名なDanny Krivitはレアなディスコやジャズにも造詣が深く「キング・オブ・ザ・リエディット」として知られています。彼は40年以上のキャリアの中で400枚以上のレコードをプロデュース、編集、ミックスしてきました。
Joe Claussellは、DJ、プロデューサー、リミキサーとして、また自身のレーベル<Spiritual Life Music>でも活躍しており、ニューヨークのダンスミュージック界で非常に尊敬されている人物の一人です。世界的なダンス・ムーブメントの多くに、ラテン、アフリカン、ブラジルなどのワールドリズムに、ジャズ、ロック、ディスコ、生楽器の要素を取り入れたJoe Claussellのパーカッシブなスタイルが影響を与えています。
Body&Soulサウンドは同名のコンピレーション・シリーズをリリースして成功を収め、パーティーではJocelyn Brown、Incognito、Eddie Palmieri、D-train、Kenny Bobien、Julie Mc Knight、Byron Stingily、Lee John of Imaginationなどの素晴らしいパフォーマンスを経験してきた。
自分たちのパーティーを「誰かのリビングルームで開催するには大きすぎたため、大きな会場を探さなければならなかったハウスパーティーのようなものです。」というように、Body&Soulでは、アットホームな空気が漂い、毎週日曜日になると、様々な職業、年齢、人種の人々が集まり、共通の力である音楽を讃えていました。
6年間毎週1000人のフォロワーを集めた後、2002年に<Vinyl>が閉店するも、Body&Soulは止まらず、東京、イタリア、リスボン、マドリッド、リオ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ロンドン、シンガポール、リヨン、カンヌ、パリ、クロアチア、トロントなどで開催する世界的なイベントとなりました。
The Shelter
1991年からニューヨークで開催され、国際的にも高い評価を得ているクラブ<The Shelter>のパーティーは、今日のハウスミュージックの顔となっているソウルフルなハウスミュージックサウンドの先駆けとなりました。
<Shelter>のレジデントDJのTimmy Regisford(ティミー・レジスフォード)ほど、音楽業界での多彩なキャリアを誇ることができる人はそう多くはありません。
<Paradise Garage>での初期のクラブ体験から、音楽に魅了されたTimmy Regisfordは、1985年にニューヨークのWBLSラジオ局でアシスタント・ミュージック・ディレクターとして働き始め、後に同局のヘッド・ミュージック・ディレクターに昇進しました。
その後、MCA Records、Atlantic RecordsでのA&Rディレクター、Motown Records、Dreamworks RecordsでのA&R副社長、Boyz II Men、Eric B.&Rakim、Blazeなどのアーティスト発掘、Diana RossからStevie Wonderなどの偉大なアーティストのリミックス、今では世界的に有名なクラブ<Shelter>の立ち上げに至るまで、Timmy Regisfordは世界中のダンスミュージックとアーバンミュージックの顔を形成する上で大きな役割を果たしてきました。
<Shelter>では、ゲイ、ストレート、国籍関係なく参加し、プレイされる曲はジャズ、ブルース、ゴスペル、ファンクなんでもありでした。Timmy Regisfordは、時に12時間以上もプレイをしていたといいます。
ドアを開けて、クラブが満員になることを期待しながら、Timmy Regisfordが何年もかけて学んだことは、自分のやっていることに忠実であり続けること、そして人々の思考プロセスを変えようとしないこと、つまり人々が望むものを与えようとすることでした。
観客はTimmy Regisfordから学び、Timmy Regisfordは観客から学ぶことで、共に成長し、<Shelter>は類を見ない存在となりました。
Strictly Rhythm
実業家のMark Finkelstein(マーク・フィンケルシュタイン)と、A&RのGladys Pizarro(グラディス・ピサロ)によって設立されたレーベル<Strictly Rhythm>は、ハウスミュージックレーベルの中でも最も影響力のあるレーベルと言えます。
1987年、Gladys PizarroはR&Bレーベル<Spring>の受付嬢として働いていました。<Spring>の財務責任者であるMark Finkelsteinは、会社が倒産の危機的状態に陥っていることをよく知っていたため、新しいビジネスを計画していました。
Gladys Pizarroに自分の手伝いをするよう誘ったことがきっかけとなり、<Strictly Rhythm>は1989年に設立されました。Gladys PizarroのA&Rとしての才能が開花し、Roger Sanchez、Todd Terry、Masters at Work、Erick Morillo、Armand Van Heldenなどのアーティストがクオリティーの高い作品を次々とリリースし、瞬く間にクラブDJの間で熱狂的な支持を得ました。
Aly-Us – Follow Me
全盛期(90年~94年頃)にはアンダーグラウンドな名曲を提供する一方で、Ultra Nateの「Free」、Josh Winkの「Higher State Of Consciousness」、Reel To Realの「I Like To Move It」など国際的なスマッシュヒット曲もリリースし、レーベルとしての地位を確固たるものにしました。
Ultra Nate – Free
90年代のニューヨークハウスはディープでソウルフルで、ツール的なトラックではありません。<Strictly Rhythm>がリリースするレコードはどれも熱量があり、レコード店に行けば、文字通り何でも売れる状態でした。それが当時の<Strictly Rhythm>の雰囲気で、多くのアーティストのキャリアを後押しする存在でした。
黄金時代の終焉
C+C Music Factory「Gonna Make You Sweat」や、イタリアの重鎮Black Box「Everybody Everybody」、Robin S「Show Me Love」などが世界的な大ヒット曲となり、1996年にはLos Del Rio(ロス・デル・リオ)のダンス・アンセム「Macarena」をBayside Boysがリミックスしたハウス・リミックスが全米チャートのトップを14週にわたって獲得するなど、90年代にハウスミュージックは頂点を迎えました。
Black Box – Everybody Everybody
Robin S – Show Me Love
ハウスミュージックが世界に広がっていく一方で、ニューヨークのハウスミュージックシーンは2000年に近くにつれて徐々に衰退し始めました。
ニューヨークに残った最後のスーパークラブは<Twilo>でしたが、ニューヨーク市にキャバレーのライセンスを更新されなかったため、2001年5月24日にクラブは閉鎖しました。
クラブが閉鎖された日、人々は周りに集まって写真を撮り、抱き合って別れを告げました。何人かは泣き、何人かは縁石に停められた銀色の車から鳴り響く音楽に合わせて踊っていたそうです。
ハウスミュージックはアンダーグラウンドだけでなく、メジャーシーンのポップスをも飲み込み、90年代を駆け抜けました。
そして、2000年代に入りハウスミュージックは舞台を移してさらなる進化を遂げて行くことになります。
90’s ハウスミュージックプレイリスト
Armand Van Helden – You Don’t Know Me
Crystal Waters – Gypsy Woman
Kerri Chandler – I Feel It
Hardrive – Deep Inside
Blue Boy – Sandman
The Fog – Been A Long Time
Alison Limerick – Where Love Lives
Junior Jack – My Feeling (Kick N’ Deep)
Soft House Company – What You Need
Fast Eddie featuring Sundance – Git On Up
C+C Music Factory – Gonna Make You Sweat
Whitney Houston – I’m Your Baby Tonight (Dronez Remix)