90’s House ニューヨーク黄金期 – ハウスミュージックの歴史⑦

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シカゴのアーティストたちが産声を上げさせたハウスミュージックが、イギリスを筆頭にヨーロッパ全土で狂乱のムーブメントを巻き起こしていた頃、アメリカ東海岸のニューヨークでもまた、決して時間が止まっていたわけではありませんでした。

伝説のクラブ<Paradise Garage(パラダイス・ガレージ)>の絶対的君主であったLarry Levan(ラリー・レヴァン)から強烈な洗礼を受けたDJやプロデューサーたちによって、ハウスミュージックはニューヨークという大都市の血を吸いながら独自の進化を遂げていきます。そして、ヨーロッパから逆輸入される形となった世界的なメインストリームの波に乗り、1990年代に類を見ない「黄金期」を迎えることになるのです。

歴史を振り返れば、ハウスはシカゴの<The Warehouse>や<The Music Box>の熱気から誕生し、<Trax Records>や<DJ International>といった現地のインディーズレーベルによってレコード化され、それがロンドンのレイヴカルチャーを爆発させる導火線となりました。しかし、その剥き出しのプロトタイプに、さらに肉厚で洗練された「新しい次元」を与えたのは、まぎれもなくニューヨークの濃密なアンダーグラウンドカルチャーと、そこに群がった無数のダンスミュージック・レーベルでした。

90年代に入ると、ハウスのDJやプロデューサーたちは単なるトラックメイカーの域を超え、超一流のスタジオミュージシャンや熟練の作曲家、シンガーたちと深く交流するようになります。彼らはスタジオに腕利きのアレンジャーや演奏家を結集させ、まるで壮大なポップ・ミュージックを作るかのような分業体制でクオリティの高い楽曲を制作し始めました。

ヒップホップのエッジーなサンプリング手法を巧みにブレンドしたブレイクビーツ、呪術的でファンキーなトライバル・ハウス、ソウルフルで精神性を感じさせるスピリチュアルなディープ・ハウス、ゴスペル直系の圧倒的なボーカルをフィーチャーした熱いニュージャージー・サウンド(ジャージー・ハウス)、そして夜が更けたフロアを狂わせるハードハウスなど、千変万化のサブジャンルがこの地から次々と産み落とされていきました。

1987年の<Paradise Garage>閉鎖後、文字通り夜の拠り所を失って彷徨っていたニューヨークのクラウドたち(ガラージ・ピープル)の魂を一時的に鎮め、熱狂のバトンを受け継いだのは、隣の州のクラブ<Zanzibar(ザンジバル)>でした。

そして、のちにニューヨーク・ハウスの偉大なる先駆者となるTodd Terry(トッド・テリー)の登場が、それまでのハウスの構造をサンプリングによって解体・再構築し、シーンの発展に決定的なターニングポイントを作ります。

さらに、Little Louie VegaとKenny Dopeによる最強のユニット「Masters At Work(マスターズ・アット・ワーク)」は、ジャズ、ラテン、ソウル、レゲエといったあらゆる音楽の壁を文字通り叩き壊し、ハウスミュージックというフォーマットの表現領域を宇宙的な規模へと拡大させました。

David MoralesやFrankie Knucklesを擁する<Def Mix Productions>は、メジャーアーティストの楽曲をハウスのビートでリミックスする手法を確立し、それまで地下に潜んでいたハウスミュージックをポップス界の表舞台(メジャーシーン)へと堂々と押し上げます。一方、夜の現場では巨大クラブ<Sound Factory(サウンド・ファクトリー)>が誕生。そこではレジデントDJのJunior Vasquez(ジュニア・ヴァスケス)が、3,000人ものクラウドを収容する規格外の空間を司り、フロアを意のままに操る姿から、夜の住人たちによって文字通り「神」と形容されるほどの絶対的な存在へ登り詰めていました。

こうした現場の熱狂をビジネスとして支え、世界へと供給したのが<Strictly Rhythm(ストリクトリー・リズム)>や<Nervous Records(ナーヴァス・レコーズ)>といったレーベルです。彼らが毎月のように連発する質の高いプロキシマ・トラックやアンセムは、もはや「インディペンデント」という枠組みでは到底括りきれないほどの巨大な資金力と世界的な影響力を誇るようになっていきました。

1990年代半ばを迎える頃には、ニューヨークのハウスミュージックはその地位を世界中で完全に確立していました。かつてシカゴの倉庫やロンドンの廃墟で鳴っていた奇妙なダンスミュージックは、いまや音楽の世界標準(フォーマット)として当たり前に存在するようになり、ローマ、ベルリン、そして東京など、世界のどこにあるレコードショップへ足を運んでも、あの特徴的なグラフィックが描かれたニューヨーク産のハウスの12インチシングルやCDが、棚の最も目立つ場所に誇らしげに陈列される時代が到来したのです。

目次

Zanzibarのジャージーサウンド

ニュージャージー州ニューアークの荒廃したエリアに位置していたホテル<Holiday Inn>が買収され、新たに<Lincoln Motel>として生まれ変わった際、その中にあった小さなバー兼ナイトクラブ<Abe’s>を全面改装し、1979年に産声を上げたのが<Zanzibar(ザンジバー)>でした。

このクラブが誕生した背景には、不動産オーナーであったMiles Berger(マイルズ・バーガー)の強烈な体験がありました。彼は、のちに音響界の伝説となるRichard Long(リチャード・ロング)に連れられてニューヨークの<Paradise Garage>へ足を運び、そこで鳴り響くサウンドと熱狂に凄まじい衝撃を受けたのです。

この感動をそのまま形にするため、マイルズはリチャード・ロング本人を招聘し、彼の手による至高のサウンドシステムを<Zanzibar>へと導入しました。フロアの規模が<Paradise Garage>の約半分ほどだったこともあり、凝縮されたその音響は、本家をも凌駕するほどの圧倒的なクリアさと、身体を芯から揺さぶるパンチの効いた強烈な鳴りを実現することになります。

オープン当初はオーソドックスなR&Bが中心にプレイされていましたが、時代の空気を吸うようにして次第にディスコミュージックへと傾倒。フロアにはLarry Patterson(ラリー・パターソン)やTee Scott(ティー・スコット)といった、実力派のDJたちがブースに立つようになっていきました。

そんな中、ニューヨークの主要ラジオ局「Kiss-FM」の人気パーソナリティであったTony Humphries(トニー・ハンフリーズ)が<Zanzibar>の空間と音響にすっかり魅了されます。ラリー・パターソンとの直接交渉の末、1982年、トニーは正式にレジデントDJの陣容へと加わることになりました。

当初は水曜日をトニー、金曜日をラリー・パターソン、土曜日をティー・スコットが分担してフロアをロックしていましたが、ラリー・パターソンが早逝したことを機に、トニー・ハンフリーズがメインDJの重責を引き継ぐことになります。ここからクラブの音楽性はさらなる深化を遂げ、ソウルフルな歌声とエレクトロニックなタフなビートが融合した気高きスタイルを確立。この独自のサウンドは、ニュージャージーの地名から「ジャージー・サウンド」と形容され、唯一無二のブランドとして熱狂的な人気を獲得していきました。

<Zanzibar>は、ニューヨークの<Paradise Garage>と強固な同盟関係を結んでシーンを盛り上げ、Chaka Khan(シャカ・カーン)やSylvester(シルベスター)、Thelma Houston(セルマ・ヒューストン)、Roy Ayers(ロイ・エアーズ)、D-Train(D-トレイン)、Peech Boys(ピーチ・ボーイズ)、Phyllis Hyman(フィリス・ハイマン)、Gayle Adams(ゲイル・アダムス)、そしてLoleatta Holloway(ロレッタ・ハロウェイ)といった、ダンスミュージック史に名を残す錚々たる一流アーティストたちを次々とステージへと招聘しました。

そして1987年、絶対的な聖地であった<Paradise Garage>が惜しまれつつもその歴史に幕を閉じると、夜の居場所を失ったニューヨークの熱心なダンサーたちは、極上のサウンドシステムとトニーのプレイを求めてハドソン川を渡り、ニュージャージーの<Zanzibar>へと大挙して押し寄せるようになります。こうして名実ともにトニー・ハンフリーズは、ニューヨーク周辺(トリ・ステイト地域)におけるクラブシーンの新たなる絶対的牽引者として、その王座に就くことになったのです。

ハウスミュージックにサンプリング手法

ニューヨークのハウスミュージックが世界から決定的な注目を浴びる最大の契機となったのは、Todd Terry(トッド・テリー)という規格外の才能の登場でした。コニーアイランドとブライトンビーチというタフなストリートで生まれ育った彼は、<Paradise Garage>でラリー・レヴァンがプレイしていたDJテープの熱狂を吸い込み、同時に当時ストリートを席巻していたヒップホップ・カルチャーから多大な影響を受けていました。

もともとトッド・テリーは、地元の友人たちにラップを乗せてもらうためのヒップホップのビート制作からキャリアをスタートさせています。しかし、当時のヒップホップ・レーベルからは色良い返事をもらえず、興味を持ってくれる場所を見つけることができませんでした。そこで彼は、当時ストリートやクラブの現場で徐々に存在感を増し始めていたハウスミュージックに、半ば目先を変える形で手を出してみることにしたそうです。

彼はローランドのドラムマシン「TR-909」を叩いて骨太なビートを組み立てると、半分はジョークのつもりで、当時人気を集めていたハウスのレコードをいくつかサンプラーにインプットし、それらのフレーズを大胆に重ね合わせていきました。ヒップホップの世界ではすでに当たり前となっていた「サンプリング」という手法を、彼はハウスミュージックのフォーマットへと初めて持ち込んだのです。こうして完成した「Party People」と題されたデモテープを、ブルックリンの小さなインディーズレーベル<Idlers(アイドラーズ)>に持ち込んだところ、その斬新なサウンドに衝撃を受けたレーベル側と、なんと翌日には正式な契約が成立することになりました。

1988年、彼がRoyal House(ロイヤル・ハウス)名義でリリースした「Can You Party」は、フロアを容赦なく揺らす強烈なサンプリング・ループが爆発的な支持を集めて大ヒットを記録します。さらに、同じく<Idlers>に所属していた気鋭のヒップホップ・グループ、Jungle Brothers(ジャングル・ブラザーズ)がこの「Can You Party」のトラックをそのまま丸ごと拝借し、その上でアグレッシブにラップを披露した楽曲「I’ll House You」を発表。この歴史的なクロスオーバー作品は、ハウスのフロアだけでなく、ヒップホップの現場でもヘビーローテーションを巻き起こし、のちに「ヒップハウス」と呼ばれる新たな潮流を決定づける記念碑的なマスターピースとなりました。

Jungle Brothers – I’ll House You

ハウスミュージックというフォーマットが、ただ作りやすいだけでなく「ビジネスとしても非常に売りやすいものである」という本質に気づいたトッド・テリーは、まるでヒップホップのプロデューサーと同じマインドセットでサンプルを何層にもレイヤーし、再構成する手法を研ぎ澄ませ、ハウスの楽曲制作に一気に傾倒していきました。

「朝起きて、ビートを組み立て、楽曲として形にし、その日の夜にはすべてが完成している」という、驚異的なスピード感のルーティンを彼は確立していました。その凄まじいプロダクション・スピードを証明するかのように、トッド・テリーのキャリアにおいて最大の世界的ヒットとなった1995年のEverything But The Girl(エヴリシング・バット・ザ・ガール)の「Missing」のリミックスも、わずか1日半という短期間で完全に仕上げられたと言われています。

Everything But The Girl – Missing (Todd Terry Remix)

こうして、トッド・テリーはハウスミュージックにサンプリングの手法を本格的に導入した偉大なる第一人者として、アメリカ国内に留まらず、ヨーロッパ各国の主要クラブからも熱烈なゲストDJとして招聘される存在となりました。彼の生み出したエッジーなサウンドと功績は、ニューヨークのハウスミュージックが世界中のダンスフロアへと爆発的に拡散していくための、決定的な起爆剤となったのです。

Masters At Work

「Masters At Work(マスターズ・アット・ワーク:通称MAW)」という奇跡のユニットが産声を上げた背景には、ほかでもないトッド・テリーによる仲介がありました。

当時、ケニー・ドープ(Kenny “Dope” Gonzalez)はヒップホップのプロデューサーとして、サンプルをベースにした骨太なクラブ・トラックを精力的に制作していました。彼が地元で開催していたストリート・パーティーにはトッド・テリーもしばしば遊びに来ており、二人はストリートの感覚を共有する友人同士でした。

一方のトッド・テリーは、すでにハウスミュージックのフィールドで頭角を現しており、人気DJであったルイ・ベガ(”Little” Louie Vega)とも親交を結んでいました。ある日、トッド・テリーを介してケニー・ドープの制作したエッジーなトラックを耳にしたルイ・ベガは、その類稀なビートメイクのセンスに大きな衝撃を受けます。ちょうど<Atlantic Records>とのメジャー契約を交わし、本格的なリリースを控えていたルイは、すぐさまケニーに「スタジオへおれのビートを作りに来ないか」とオファーの連絡を入れました。この運命的なコンタクトを機に、二人は本格的な共同作業を開始することになります。

実は「Masters At Work」という名称は、もともとケニー・ドープが率いていたストリート・パーティーのクルーの名前でした。1987年にトッド・テリーが「Alright Alright」と「Dum Dum Cry」という楽曲をリリースする際、新しい別名義を模索していたトッドがケニーからこの「Masters At Work」の名を借り受け、レコードのアーティスト名としてクレジットしたという風変わりな経緯があります。

しかし、1990年にケニーとルイが正式に最強のプロダクション・チームを結成することになったため、彼らはトッド・テリーから「Masters At Work」の名を譲り受け(返してもらい)、文字通り自分たちのメイン名義として本格的な活動をスタートさせました。彼らはハウス、ヒップホップ、ファンク、ディスコ、ラテン、アフリカン、ジャズなど、地球上のありとあらゆる音楽のエッセンスを貪欲にミックス。何百もの独創的なオリジナル作品やリミックス、数々のサイドプロジェクトを世に送り出し、それまでのクラブミュージックの限界とあり方を完全に再定義する圧倒的な存在へと登り詰めていきました。

彼らの特筆すべき功績の一つが、既存の「リミックス」という概念そのものを根底から覆した卓越したリミックスワークです。MAWの手がけたリミックスは、原曲のパーツを少し器用にいじって豪華にするような安易なものではなく、オリジナルから「ボーカルの痕跡(声の素材)」だけを綺麗に抜き出し、それ以外はまったく新しいグルーヴとコード進行でゼロから壮大に作り変えてしまうという、極めて破壊的でクリエイティブな手法でした。

この圧倒的なクオリティに惚れ込んだニューヨークのトップDJたちは、こぞってレコードの「B面」に収録されたMAWのリミックスを鳴らすために彼らの12インチシングルを買い漁るようになります。その当時の異様な熱狂ぶりについて、ルイ・ベガはのちに「あの頃は誰もが僕たちのサウンドを欲しがっていた。あのマドンナでさえ、僕たちにリミックスを依頼してきたんだ」と誇らしげに振り返っています。。

Def Mix Production

ブルックリンのストリートで生まれ育ったDavid Morales(デヴィッド・モラレス)は、地元のクラブ<Ozone Layer(オゾン・レイヤー)>のレジデントDJとして頭角を現し、絶対的な聖地であった<Paradise Garage>ではあのLarry Levanの代役(バックアップDJ)を任されるほどの確かな実力を備えていました。その後、ニュージャージーの<Zanzibar>でもレジデントに抜擢され、Tony Humphriesとともにブースに立ってフロアを揺らすなど、ニューヨーク周辺のシーンで絶大な人気と信頼を集めていきました。

現場のトップDJとして確固たる地位を築いたモラレスは、次なる巨大な一歩を踏み出します。当時、David Mancusoとともに伝説的なレコードプール「For The Record」を運営していた辣腕の女性実業家・Judy Weinstein(ジュディ・ワインスタイン)と、すでにシカゴで絶対的なレジェンドとなっていたFrankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)を仲間に加え、3人でマネジメント兼制作プロダクションである<Def Mix Productions(デフ・ミックス・プロダクションズ)>を設立し、本格的な活動を開始したのです。

このDef Mix Productionsの登場は、世界の音楽業界における「リミックス」の概念そのものを文字通り根底から変えてしまうことになりました。それまでの時代のリミックスといえば、マルチテープに残された元の録音素材(ドラムやベースなどのパーツ)を器用にエディットしたり、エフェクトを足したりして仕上げるのが一般的な手法でした。

しかし、Def Mixの制作スタイルはそれとは一線を画していました。彼らは世界最高峰のスタジオミュージシャンやアレンジャーを直々にスタジオへと呼び込み、きらびやかなキーボードや生々しいベースラインを贅沢にオーバーダビング(追加録音)。楽曲のコード進行からビートの質感に至るまで、文字通り「原曲のすべてをゼロから気高く作り直す」という贅沢極まりないアプローチを敢行したのです。

この圧倒的なクオリティと美学は、メジャーシーンのトップアーティストたちをも完全に虜にしました。その象徴的な極致が、1993年に世界の歌姫・Mariah Carey(マライア・キャリー)が発表した大ヒットシングル「Dreamlover」のDef Mixリミックスです。彼女はモラレスたちの生み出す極上のクラブグルーヴに合わせるため、既存の素材を提供するだけでなく、リミックスのためだけにスタジオに入り、すべてのボーカルを完全に録音し直す(リ・レコーディングする)という異例の行動に出たのです。

こうしてDef Mix Productionsは、アンダーグラウンドなクラブミュージックのフォーマットをそのままに、ポップ・ミュージックの最高峰へと見事に融合。世界中のメジャーレーベルがこぞって特大の予算を投じて彼らにリミックスを依頼する時代を作り上げ、ハウスミュージックの芸術性とステータスを最高位へと押し上げる歴史的な功績を残しました。

Mariah Carey – Dreamlover Def Club Mix

これによって、”リミックス”という行為はもはや「オリジナル楽曲の単なる延長線上にあるバージョン違い」ではなく、それ自体が完全に独立した芸術的価値、そして莫大なビジネスチャンスを持つものとして認められるようになりました。それを受け、それまで単にアレンジャーやエディター扱いだったDJやリミキサーたちに対しても、名誉ある「Remix Produced By(リミックス・プロデュース:〜)」という革新的なクレジットが公式に与えられる時代が到来したのです。

その経済的・文化的な成功のピークとして、1995年を迎える頃には、Def Mix ProductionsはMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)とJanet Jackson(ジャネット・ジャクソン)による世紀のメガヒット曲「Scream」のようなビッグタイトルの一曲のリミックスを手がけるだけで、なんと8万ドル(当時の日本円で約800万〜900万円規模)もの巨額の報酬を勝ち取るほどのメガ・ブランドへと登り詰めていました。

彼らは前述のマライア・キャリーを筆頭に、Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)、Michael Jackson、Janet Jackson、Eric Clapton(エリック・クラプトン)、Pet Shop Boys(ペット・ショップ・ボーイズ)、U2、Whitney Houston(ホイットニー・ヒューストン)、Jamiroquai(ジャミロクワイ)など、音楽史にその名を刻むそうそうたるトップ・メジャーアーティストたちのリミックス作品を文字通り連発。

Def Mix Productionsが提示した、どこまでもソウルフルで気品溢れるプロダクション・ワークは、それまで一部の夜の住人たちのものであった「ハウスミュージック」というアンダーグラウンドなフォーマットを、世界中の誰もが耳にする最も洗練された「メジャーな音楽」へと引き上げる、最大の一翼を担ったのです。

Sound FactoryとJunior Vasquez

1989年にオープンした<Sound Factory(サウンド・ファクトリー)>は、マンハッタンのチェルシー地区にある、当時はまだ治安の良くない倉庫街の中にひっそりと佇んでいました。建物自体は巨大で無機質な空間でしたが、そこに満ちる音楽の力によって、まるで小さなシェルターにいるかのような親密なコミュニティの空気が生み出されていました。フロアではフルーツやクッキー、冷えた水、コーヒーが無料で振る舞われ、エントランスには毎週数百ドル相当の新鮮な生花が贅沢に飾られるなど、独自のホスピタリティで満たされていました。

出口には常にコンドームが詰め込まれた巨大なボウルが置かれ、クラウドたちが電話番号を交換するための鉛筆やメモ帳が山積みにされているなど、夜の住人たちの出会いと安全を支える配慮が行き届いていました。そして何より、その強烈な音響設計により、館内のどの場所に身を置いてもダンスフロアの音が聞こえない場所は一箇所も存在しませんでした。

かつて<Paradise Garage>に通い詰め、Larry LevanのDJプレイに文字通り心酔したことから音楽の道を志したJunior Vasquez(ジュニア・ヴァスケス)は、クラブ<Bassline>でDJとしての確固たる知名度を確立。その後、この<Sound Factory>のローンチとともにレジデンスDJに就任します。1989年から1995年の閉店に至るまで、彼は毎週土曜日の夜(から翌朝にかけて)、3,000人もの熱狂的なクラウドを前に、実に10時間以上にも及ぶロングプレイを独占的に行い続けました。

ジュニア・バスケスは、リズムやテンポ、選曲のスタイルを自在に変幻させながら、何時間でも容赦なくフロアをドライブし続ける圧倒的なグルーヴを組み立てる天才でした。彼はフロアの観客からはほとんど姿が見えない、完全に遮断されたDJブースの中に閉じこもってプレイすることで、自らの存在に深い神秘性をまとわせていました。そのストイックな姿勢が、夜の住人たちの間で彼をより一層「神」のような絶対的存在へと神格化させていくことになります。

彼の唯一無二の音楽スタイルと強烈な個性、そして毎週日曜日の朝からスタートする伝説的な「アフターアワーズ・パーティー」を愛する熱狂的なファン(ジュニア・チルドレン)が急増し、彼がニューヨークで最も影響力のあるトップDJの一人になるまでに時間はかかりませんでした。その噂は瞬く間にメジャーシーンにも轟き、C+C Music FactoryやDavid Morales、Björk(ビョーク)、Marilyn Manson(マリリン・マンソン)、そしてMadonna(マドンナ)といったそうそうたる世界的トップアーティストたちが、そのリアルな熱狂と刺激を求めて日曜日朝の<Sound Factory>のフロアに頻繁に姿を現すようになりました。

この現場の爆発的なパワーを目の当たりにした大手レコード会社は、すぐさまジュニア・バスケスにメジャーのトップシンガーたちのクラブ向けリミックス制作を大金で依頼するようになります。レーベルからの需要が急増したことで、彼は数多くの人気アーティストの未発表素材やリミックスを日常的に手がけるようになり、結果としてスタジオには、まだ市場に出回っていない彼自身の「エクスクルーシブ(独占的)なリミックス・アセテートやダブプレート」のレパートリーが膨大に蓄積されていきました。これによって、世界のどこを探しても「<Sound Factory>のジュニアのプレイでしか絶対に聴くことができない特大のトラック」がフロアに投下されるようになり、彼のDJの神話性をさらに決定的なものにしていったのです。

1995年2月、惜しまれつつも<Sound Factory>が閉鎖された後、ジュニア・バスケスは<Tunnel(トンネル)>(1995-1996年)や<Palladium(パラディウム)>(1996-1997年)といった名門クラブでレジデンスを歴任。そして1997年、かつて自らが黄金期を築いた<Sound Factory>の跡地に新たに誕生したメガクラブ、<Twilo(トゥワイロ)>の土曜日の夜の主宰者として、再びその聖地へと帰還を果たしました。

この<Twilo>は、当時のアメリカのクラブとしては画期的なことに、国内のDJよりもヨーロッパの最先端のDJたちをいち早くメインに招聘するという先鋭的なコンセプトを導入した場所でもありました。これにより、Sasha & John Digweed、Paul van Dyk(ポール・ファン・ダイク)、Carl Cox、Steve Lawler(スティーヴ・ローラー)、Paul Oakenfold、Pete Tong(ピート・トン)、Sven Väth(スヴェン・フェイト)といった、ヨーロッパやイギリスのトップスターDJたちが次々とこのブースに立ち、ニューヨークのクラウドに新たな衝撃を与えました。

<Twilo>のフロアには、彼らのプレイを支えるために設計された特注のDJブースと、のちに伝説となる最新鋭のサウンドシステム「Phazon(フェイゾン)」が設置されていました。このシステムは、稀代の音響エンジニアであるSteve Dash(スティーヴ・ダッシュ)が<Twilo>のためだけに心血を注いで設計した、当時は世界でこの会場にしか存在しない唯一無二のカスタムシステムでした。

そのあまりにも卓越した音質と立体的な鳴りは、世界中の耳の肥えたDJたちから「世界最高峰」と絶賛され、ブースに立ったDJの中には、自分のお気に入りのレコードがこのシステムでどう鳴り響くのかを体感したくて、DJプレイの最中に一瞬だけブースを飛び出し、一般のダンサーたちに混ざってフロアの真ん中でその音響の快感に耳を傾ける者さえいたといいます。この驚異のサウンドシステムは、のちにクラブが歴史を終えた際、同じく音響に並々ならぬこだわりを持つ<Club Shelter(クラブ・シェルター)>へと売却され、その遺伝子が引き継がれることになります。

最先端の音楽と最高峰の音響でニューヨークの夜に君臨し続けた<Twilo>でしたが、その終焉は突然訪れました。2001年5月、薬物取り締まりや治安維持を名目とした市当局からの容赦ない強制命令により、会場は突如として閉鎖を余儀なくされ、ニューヨークのクラブ史における一つの壮大な時代が、ここで強制的に幕を閉じることとなったのです。

Body & Soul

1990年代後半のニューヨークにおいて、商業化や大型化が進むシーンのカウンターとして、そして真のダンスミュージックのスピリットを救い出すかのように誕生したのが、1996年にFrancois K(フランソワ・ケー)とJohn Davis(ジョン・デイヴィス)によって設立された伝説のパーティー<Body & Soul(ボディ・アンド・ソウル)>でした。

ニューヨークのトライベッカ地区に位置するクラブ<Vinyl(ヴァイナル)>を舞台に、毎週日曜日の午後(サンデー・アフタヌーン)という異例の時間帯にスタートしたこのパーティーは、当初はわずか50人ほどが集まるだけの、身内向けのささやかな集まりでした。気の置けない友人たちを招き、自分たちの好きな音楽をただ純粋に、好きなようにプレイすることだけを目的に始まった空間でしたが、そこに宿る圧倒的な純度とエネルギーは口コミで瞬く間に拡散。気がつけばニューヨークで最も尊敬され、愛されるウィークリー・パーティーへと奇跡的な変貌を遂げていたのです。

この空間を司ったのが、Danny Krivit(ダニー・クリビット)、Joe Claussell(ジョー・クラウゼル)、そしてFrancois Kという、それぞれ全く異なる背景と絶対的な実力を持つ3人のレジデントDJたちでした。彼らは、有機的(オーガニック)でスピリチュアルなダンスミュージックのグルーヴを、3人の個性が奇跡的な調和を見せるソウルフルなミックスで披露。エレクトロニカから生楽器の響きまでを地続きで鳴らすそのサウンドは、90年代後半における「ニューヨーク・ハウス」の精神性を象徴する気高き旗手となりました。

3人の核となるFrancois Kのエレクトロニック・ミュージックにおけるキャリアは、1970年代後半のニューヨークの狂乱のクラブシーンや、伝説のディスコ・レーベル<Prelude(プレリュード)>での八面六臂の活動にまで遡ります。1980年代にはヨーロッパのエレクトロ/ニューウェーブ・シーンに深く関わり、数多くの名盤のミックスを手掛け、1990年代には自身の理想を具現化するレーベル<Wave Music>を設立。現在までに約1,000枚以上ものレコードにエンジニア/ミキサーとしてクレジットされ、DJ、そしてプロデューサーの両面からエレクトロニック・ミュージックの限界を探求し続けている至高の巨匠です。

もう一人の重鎮、Danny KrivitのプロDJとしての足跡は、1970年代、ニューヨークの音楽文化の桃源郷でありDJのメッカでもあったDavid Mancusoの<The Loft(ザ・ロフト)>から始まりました。彼はそこでLarry LevanやFrancois Kとの生涯にわたる深い絆とコラボレーションの基礎を築きます。特にディスコの「リエディット(原曲のパーツをテープ編集で並び替え、フロア仕様に再構築する手法)」において圧倒的な才能を発揮し、レアなディスコ、クラシック、ファンク、ジャズへの底知れない造詣の深さから、畏敬の念を込めて「キング・オブ・ザ・リエディット」と称されています。40年以上のキャリアの中で、彼がプロデュースや編集、ミックスに関わったレコードは400枚を軽く超えています。

そして、3人の中で最もパーカッシブで情熱的なエネルギーを注入したのがJoe Claussellでした。彼はDJ、プロデューサー、リミキサーとして活動する傍ら、自身のレーベル<Spiritual Life Music>を主宰し、ニューヨークのダンスミュージック界で最も精神性の高いアーティストの一人として絶大な尊敬を集めています。ラテン、アフリカン、ブラジリアンといった豊かなワールド・リズムに、ジャズ、ロック、ディスコ、そして生き生きとした生楽器の要素を大胆に取り入れた彼の呪術的とも言えるプレイスタイルは、世界中のディープ・ハウス・ムーブメントに計り知れないほど大きな影響を与えました。

この3人が織りなす「Body & Soulサウンド」の熱気は、同名のコンピレーション・CDシリーズとしてもリリースされ、世界中で記録的な成功を収めます。また、パーティーの現場では音源だけに留まらず、Jocelyn Brown(ジョセリン・ブラウン)やIncognito(インコグニート)、ラテン・ジャズの巨匠Eddie Palmieri(エディ・パルミエリ)、D-Train、Kenny Bobien(ケニー・ボビアン)、Julie McKnight(ジュリー・マックナイト)、Byron Stingily(バイロン・スティンギリー)、そしてLee John of Imaginationといった、至高のソウルとグルーヴを持つ素晴らしいアーティストたちのライブ・パフォーマンスが突発的に披露され、クラウドに鳥肌が立つような感動を与えてきました。

主催者たちが自分たちのパーティーを「誰かの家のリビングルームで開催するには少し大きくなりすぎたから、しかたなく大きな会場を探さなければならなかった、あの温かいハウスパーティーのようなものさ」と語る通り、<Body & Soul>のフロアには、商業主義とは無縁のどこまでもアットホームで純粋な空気が揺るがずに漂っていました。毎週日曜日になると、そこには職業、年齢、性別、人種、そしてセクシャリティの壁を完全に超えた多様な人々が集い、エゴを捨て去り、ただ一つの共通の光である「音楽」を全員で讃え、狂喜のダンスを踊り明かしていたのです。

6年間にわたり、毎週1,000人以上もの熱狂的なフォロワー(Body & Soulファミリー)を集めて世界のダンスミュージックの良心を支え続けたこのパーティーでしたが、2002年、本拠地であった<Vinyl>の閉店に伴い、ニューヨークでのウィークリーとしての歴史に一つの区切りを迎えます。

しかし、<Body & Soul>の魔法がそれで途絶えることはありませんでした。彼らの掲げた「音楽による融和と解放」のスピリットは国境を軽々と飛び越え、東京、イタリア、リスボン、マドリード、リオデジャネイロ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ロンドン、シンガポール、リヨン、カンヌ、パリ、そしてクロアチアやトロントなど、世界中の主要都市を巡る巨大なグローバル・イベントへと発展。あのウィークリーの濃密なアットホーム感とスピリチュアルなグルーヴをそのまま世界のスタジアムや野外フェスへと持ち込み、今なお世界中のクラウドの魂を震わせ続けています。

The Shelter

1991年からニューヨークで産声を上げ、今日に至るまで国際的に極めて高い評価を獲得し続けている伝説のクラブ、そしてパーティーが<The Shelter(ザ・シェルター)>です。ここで育まれた唯一無二のグルーヴは、今日のダンスミュージック・シーンの代名詞ともなっている「ソウルフルなハウスミュージック(ディープ・ハウス)」の完全なる先駆けであり、至高の到達点となりました。

この<Shelter>の絶対的なレジデントDJであり主宰者であるTimmy Regisford(ティミー・レジスフォード)ほど、アンダーグラウンドの現場からメジャーの音楽業界の頂点に至るまで、多彩で圧倒的なキャリアを誇ることができる人物は世界を探してもそう多くはありません。

ティミーもまた、若き日に<Paradise Garage>のフロアで浴びた初期のクラブ体験から音楽の魔力に取り憑かれた一人でした。その卓越した選曲眼と楽曲への嗅覚を武器に、1985年にはニューヨークの著名なブラック・ミュージック・ラジオ局「WBLS」でアシスタント・ミュージック・ディレクターとしてキャリアをスタート。その並外れた手腕が認められ、のちに同局のヘッド・ミュージック・ディレクター(最高音楽責任者)へと若くして登り詰めます。

彼の才能はラジオの世界だけに留まらず、メジャー音楽業界の勢力図をも塗り替えていきました。<MCA Records>や<Atlantic Records>でのA&Rディレクターとしての活躍を経て、ブラック・ミュージックの聖地である<Motown Records>、さらには<DreamWorks Records>においてA&Rの副社長を歴任。その驚異的な審美眼によって、Boyz II Men(ボーイズ・II・メン)や、ヒップホップ界の伝説Eric B. & Rakim(エリックB.&ラキム)、そしてハウス界の至宝Blaze(ブレイズ)といった時代を定義するアーティストを次々と発掘・育成しました。

さらに、Diana Ross(ダイアナ・ロス)からStevie Wonder(スティーヴィー・ワンダー)といった音楽史に輝く偉大な巨匠たちのリミックスワーク、そして今や世界的なクラブとなった<Shelter>の立ち上げに至るまで、ティミー・レジスフォードという男は、世界中のダンスミュージックとR&B/アーバンミュージックの「顔」そのものを形成する上で、決定的な役割を果たしてきたのです。

彼が自らの理想郷としてオープンさせた<Shelter>のフロアには、セクシャリティ(ゲイ、ストレート)や国籍、人種の壁を完全に超越した多様な人々が夜な夜な集いました。そこでプレイされる音楽は、ハウスというフォーマットの枠組みを軽々と飛び越え、ジャズ、ブルース、ディープなゴスペル、ファンクなど、「魂(ソウル)」が宿る楽曲であれば文字通りなんでもありの精神が貫かれていました。この濃密な空間を司るティミーは、時に12時間、あるいはそれ以上にも及ぶ執念のロングプレイでフロアの魂を揺さぶり続けました。

毎週末、クラブのドアを開け、フロアが満員になることを期待しながら、ティミー・レジスフォードが何年、何十年という歳月をかけて現場から学んだこと。それは、「自分が信じる音楽にどこまでも忠実であり続けること」、そして「集まった人々の思考プロセスを無理に変えようと(コントロールしようと)しないこと」、つまり「人々が魂の底から本当に望んでいるエネルギーを、音楽を通してダイレクトに与えること」でした。

オーディエンスはティミーの選曲から音楽の深い精神性を学び、ティミーもまたフロアのクラウドが見せるリアルな反応から次なるインスピレーションを学ぶ。この「互いに学び、共に成長していく」という、言葉を超えた強い信頼関係があったからこそ、<Shelter>は世界のクラブシーンにおいて、他の追随を許さない唯一無二の聖地となったのです。

Strictly Rhythm

実業家のMark Finkelstein(マーク・フィンケルシュタイン)と、天才的な審美眼を持つA&RのGladys Pizarro(グラディス・ピサロ)の二人によって設立された<Strictly Rhythm(ストリクトリー・リズム)>は、数あるハウスミュージック・レーベルの中でも、1990年代のダンスミュージックのあり方を完全に決定づけた「最も影響力のある最重要レーベル」と言えます。

時計の針を巻き戻すと、1987年の時点でグラディス・ピサロは、R&Bの名門レーベル<Spring Records>の受付嬢として働いていました。一方、同レーベルの財務責任者(CFO)を務めていたマーク・フィンケルシュタインは、当時の会社が倒産の危機という極めて深刻な状態に陥っていることを数字から正確に察知しており、水面下で次なる新しい音楽ビジネスの計画を練り上げていました。

マークが「自分の新しいプロジェクトを手伝ってくれないか」と、音楽への情熱に溢れていたグラディスを誘ったことがすべての始まりとなり、1989年、二人の共同経営によって<Strictly Rhythm>が正式に設立されることになります。

レーベルが始動すると、グラディスのA&Rとしての並外れた才能が一気に開花。彼女はストリートの熱気を鋭く察知し、Roger Sanchez(ロジャー・サンチェス)、Todd Terry、Masters At Work(ルイ・ベガ&ケニー・ドープ)、Erick Morillo(エリック・モリーロ)、Armand Van Helden(アーマンド・ヴァン・ヘルデン)といった、のちに世界のトップへと登り詰める若き才能たちを次々と発掘・起用していきました。

彼らが<Strictly Rhythm>のタフで太いグルーヴをまとって生み出すクオリティの高い作品群(黄色いレンガのレーベルデザインは当時のトレードマークでした)は、瞬く間に世界中のクラブDJたちの間で熱狂的な支持を獲得し、ニューヨーク・ハウスを世界標準へと押し上げる原動力となったのです。

Aly-Us – Follow Me

全盛期(1990年〜1994年頃)には、世界中のフロアをロックするアンダーグラウンドな名曲を息つく暇もなく量産する一方で、レーベルの枠を超えて世界を震撼させる国際的なメガヒットをも次々と世に送り出していきました。

その代表格が、ハウス・ミュージックの枠を完全に超えてヨーロッパ全土のポップチャートを席巻したReel 2 Real(リール・2・リアル:エリック・モリーロのプロジェクト)による1993年の爆発的アンセム「I Like To Move It」でした。さらに、Josh Wink(ジョッシュ・ウィンク)がアシッド・ハウスとドラムンベースのリズムを狂気的に融合させ、のちにレイヴ・シーンの特大アンセムとなった1995年の「Higher State Of Consciousness」、そしてUltra Naté(ウルトラ・ナテ)が放った、フロアに集うすべての人々の心を震わせるエモーショナルな特大賛歌「Free」(1997年)など、音楽史に燦然と輝くスマッシュヒット曲を連発。

ストリートの信頼を勝ち取るディープな地下のグルーヴと、スタジアムを揺らすポップ・ポテンシャルという、一見相反する二つの要素を完璧に両立させた<Strictly Rhythm>は、名実ともにダンスミュージック界の絶対的な頂点として、その地位を揺るぎないものに確立したのです。

Ultra Nate – Free

1990年代のニューヨーク・ハウスが放っていた最大の魅力は、単にDJがミックスを繋ぐためだけに使う無機質な「ツール(道具)としてのトラック」の域を完全に超えていた点にあります。そこにはディープでソウルフルな歌声やベースライン、そして現場の熱狂がそのまま刻み込まれており、どのレコードの溝にも剥き出しの熱量が漲(みなぎ)っていました。

当時の<Strictly Rhythm>が纏っていた空気感はまさに無敵と言えるもので、レコードショップにあのアナログ盤が並びさえすれば、バイヤーやDJたちがこぞってレジへと持ち去り、文字通り「出せば何でも売れる」という爆発的な市場を作り上げていました。この圧倒的なブランド力と現場への供給体制があったからこそ、同レーベルは数多くの若き才能たちのキャリアを力強く後押しし、彼らを一気に世界的なスターダムへと押し上げる絶対的なエンジンとして君臨し続けたのです。

黄金時代の終焉

C+C Music Factoryの「Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now)」や、イタリアのプロデュース・チームによるBlack Boxの「Everybody Everybody」、そして鮮烈なシンセベースが今なおサンプリングされ続けるRobin S.の「Show Me Love」といった楽曲たちが、クラブの現場を飛び越えて世界的なメガヒットを記録。そして1996年には、スペインのデュオLos Del Río(ロス・デル・リオ)によるラテン・ポップ「Macarena(恋のマカレナ)」を、Bayside Boys(ベイサイド・ボーイズ)がタフなハウス・グルーヴへとリミックスしたバージョンが、全米シングルチャート(Billboard Hot 100)の頂点を14週にわたって独占するという驚異的な歴史を打ち立てました。

アンダーグラウンドな倉庫や地下のコミュニティで産声を上げたハウスミュージックのフォーマットは、この90年代、名実ともに世界のポップ・ミュージック・シーンの頂点へと君臨し、大衆文化そのものを完全に支配するゴールド・エラ(黄金期)を迎えたのです。

Black Box – Everybody Everybody

Robin S – Show Me Love

ハウスミュージックが世界の音楽シーンを完全に席巻していく一方で、皮肉にもその聖地であったニューヨークのハウスミュージックシーンは、2000年というミレニアムの節目に近づくにつれて、徐々にその勢いを失い、衰退の影が忍び寄り始めていました。

当時、ニューヨークに残されていた「最後のスーパークラブ」が、あの最高峰の音響を誇った<Twilo>でした。しかし、夜の街への取り締まりを急速に強めていたニューヨーク市当局によって、営業に不可欠なキャバレー・ライセンス(ダンス営業許可証)の更新を拒否され、2001年5月24日、ついにその重い扉を完全に閉ざされることとなりました。

クラブが強制閉鎖されたその日、聖地の最期を見届けるために多くの人々が建物の周りへと集まりました。彼らは名残惜しそうに写真を撮り、互いに抱き合ってひとつの時代の終焉に別れを告げました。あまりの悲しみに涙を流す者がいる一方で、ある人々は縁石に停められた銀色の車のカーステレオから大音量で鳴り響くハウス・ミュージックのビートに合わせ、アスファルトの上で激しく踊り続けていたといいます。それは、ニューヨークのアンダーグラウンドが誇った意地と、音楽への純粋な愛が爆発した、あまりにもエモーショナルな光景でした。

シカゴの倉庫やニューヨークの地下コミュニティという極めて閉ざされたアンダーグラウンドから産声を上げたハウスミュージックは、わずか10数年の間に世界中のダンスフロアを燃え上がらせただけでなく、メジャーシーンのポップスをも完全に飲み込み、凄まじい熱量で1990年代という激動の時代を駆け抜けました。

そして、ひとつの巨大な黄金期を終えたハウスミュージックは、2000年代という新世紀の到来とともに、ヨーロッパを中心とした新たな舞台へと主戦場を移し、エレクトロニック・ダンス・ミュージック(EDM)の世界的爆発へと繋がるさらなる進化と、果てしない旅路へ向かうことになるのです。

90’s ハウスミュージックプレイリスト

Armand Van Helden – You Don’t Know Me

Crystal Waters – Gypsy Woman

Kerri Chandler – I Feel It

Hardrive – Deep Inside

Blue Boy – Sandman

The Fog – Been A Long Time

Alison Limerick ‎– Where Love Lives

Junior Jack – My Feeling (Kick N’ Deep)

Soft House Company – What You Need

Fast Eddie featuring Sundance – Git On Up

C+C Music Factory – Gonna Make You Sweat 

Whitney Houston – I’m Your Baby Tonight (Dronez Remix)

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