1970年代後半、ニューヨークを中心に隆盛を極めたディスコミュージックは、音楽チャートを席巻し、映画やファッションをも巻き込む巨大な一大ムーブメントとなりました。
しかし、商業主義と結びついて急激に肥大化したこの過剰なディスコブームは、既存の音楽ファンや、特にそれまで主流だったロックを支持する人々からの強い反発を招くことになります。
この反感の先頭に立ったのが、ロック専門のラジオ局で活躍していたラジオ・パーソナリティたちでした。彼らが中心となって巻き起こした「Disco Sucks(ディスコは最低だ)」というスローガンは、単なる一過性のブーイングにとどまらず、全米規模の組織的な反ディスコ運動へと発展していくことになります。
「Disco Sucks」キャンペーンが拡大し、その勢力が最高潮に達した頃、シーンを震撼させる決定的な事件が起きました。
1979年7月12日、ロック専門のラジオ局「WLUP」の人気ディスク・ジョッキーであったSteve Dahl(スティーヴ・ダール)が、シカゴのコミスキー・パーク(当時のホワイトソックスの本拠地)にて「Disco Demolition Night(ディスコ爆破の夜)」というイベントを企画・決行したのです。
このイベントは、入場を希望する観客に「事前にディスコのレコードを持参すれば、入場料を割引する」という条件で呼びかけられました。集まった大量のレコードをグラウンドの中央に山積みにし、それをダイナマイトで一斉に爆破するという過激な演出でした。
しかし、爆破が実行されると球場内の興奮は完全に暴走。スタンドを埋め尽くしていた何千人もの観客がフィールドへと次々に乱入し、グラウンドを占拠する大暴動へと発展しました。火の粉が飛び交い、小競り合いによって怪我人が多数出るほどの事態となったため、試合は没収試合(ホワイトソックスの不戦敗)という異例の結末を迎えました。
この凄まじい暴動劇は、全米のメディアで大きく報道されることとなります。メディアやメジャーレーベルが一斉にディスコから手を引く直接的な引き金となり、文字通り、それまで世界を席巻していたディスコブームの一時代の終わりを決定づける象徴的な事件となりました。
「ハウスは、ディスコの復讐なんだよ(House is disco’s revenge)」
ハウスミュージックの生みの親といわれるFrankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)が遺したこの言葉は、ハウスミュージックがディスコミュージックの遺伝子を色濃く受け継ぎ、その精神的なカウンター(反撃)として生まれた音楽であるということを何よりも雄弁に証明しています。
メジャーシーンで「Disco Sucks」の暴動が起き、商業的なブームこそ急速に過ぎ去ったものの、ディスコの火が完全に消え去ったわけではありませんでした。過剰に商業化されたディスコは一度メインストリームから姿を消し、再び社会の耳から隠れた「地下(アンダーグラウンド)」へと潜ることになります。
そこで人種やセクシャリティを超えたシリアスなクラウドたちのフィルターを通ることで、ディスコのミニマリズム、ビートの強靭さ、そしてエモーショナルな熱量はより純度の高いものへと精製され、1980年代に「ハウスミュージック」としての進化を遂げることになります。
この現代のハウスミュージックへと繋がる原型、そしてその歴史的なうねりをシカゴの地から生み出したのが、まさに<The Warehouse(ウェアハウス)>とフランキー・ナックルズでした。
Frankie Knuckles

Frankie Knuckles、本名Francis Warren Nicholls, Jr. (フランシス・ウォーレン・ニコルズ・ジュニア)は、1955年1月18日にニューヨークのブロンクスで生まれました。
ファッション専攻の学生だった頃に、<The Loft><The Sanctuary><Better Days><Tamburlaine>などのクラブに通い始めました。ファッション好きでデザイナー志望だったLarry Levan(ラリー・レヴァン)と出会い、行動を共にするようになり、Nicky Siano(ニッキー・シアーノ)のクラブ<The Gallery>でスタッフとして働くなどして、クラブ界隈で知られるようになります。
Frankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)、本名Francis Warren Nicholls, Jr. (フランシス・ウォーレン・ニコルズ・ジュニア)は、1955年1月18日にニューヨークのブロンクスで生まれました。
テキスタイル(織物・染物)やファッションを専攻する学生だった頃から、<The Loft>、<The Sanctuary>、<Better Days>、<Tamburlaine>といったニューヨークの先駆的なクラブへ熱心に通い始めます。その中で、同じくファッションを愛し、デザイナーを志していたLarry Levan(ラリー・レヴァン)と出会って行動を共にするようになり、Nicky Siano(ニッキー・シアーノ)の<The Gallery>で裏方スタッフとして働きながら、クラブ界隈の顔として知られるようになっていきました。
そんな彼が初めて本格的なDJプレイを経験したのが、1971年のニューヨークのクラブ<Better Days>でした。
当時<Better Days>では、のちにディスコ・リミックスの巨匠となるTee Scott(ティー・スコット)がレジデントDJを務めていました。店はもともと週5日営業でしたが、さらなる営業拡大のために週7日オープンへと舵を切ることになります。しかし、これ以上の出番を増やしたくなかったティー・スコットの意向を受け、空いた月曜日と火曜日の週2日を任せる代役として、当時まだ若かったフランキーに白羽の矢が立ちました。
この時点でのフランキーはまだプロのDJではなく、自分のレコードバッグすら持っていなかったため、「自分にできるわけがない」と躊躇していましたが、ティー・スコットに強く背中を押されたことで仕事を引き受ける決意をします。しかし、案の定、まだキャリアの浅かったフランキーは思うような選曲やフロアのコントロールができず、厳しい現実に直面した結果、わずか半年ほどで解雇という苦い結末を迎えてしまいました。
<Better Days>を解雇され、挫折を味わっていたフランキーを見かねたラリー・レヴァンは、自身がレジデントとしてプレイしていた最先端のクラブ<The Continental Baths(コンチネンタル・バス)>に彼を呼び寄せ、平日の夜にプレイするよう勧めました。
この<The Continental Baths>は、当時のニューヨークで最もホットなゲイスポットとしてその名を轟かせていた場所です。巨大な浴場やサウナに、本格的なディスコクラブが融合した革新的な複合施設であり、セクシャリティを問わず、流行に極めて敏感なニューヨーカーたちが夜な夜な集まる洗練された空間でした。
ここで再びチャンスを得たフランキーは、かつてギャラリーの裏方として共に汗を流したラリーとタッグを組むことになります。月曜日と火曜日をフランキー・ナックルズが担当し、水曜日から日曜日までのメイン日をラリー・レヴァンが担当する。この盤石の体制の中で、2人は毎日のようにDJテクニックについて深く語り合い、最新のレコード情報を熱心に交換しながら、お互いの感性とスキルを驚異的なスピードで高め合っていきました。
やがて、ラリー・レヴァンがサウンドエンジニアのリチャード・ロングの運営する<SoHo Place>へと引き抜かれたことで、<The Continental Baths>のすべての曜日をフランキー・ナックルズが単独で任されることになりました。
週のすべての夜を一人でコントロールし、多様なクラウドを躍らせ続けるというこの過酷かつエキサイティングな経験こそが、フランキーを真のDJとして目覚めさせ、その才能を飛躍的に成長させる決定的な契機となったのです。単なる代役やサポートではなく、一人の独立した表現者としてのアイデンティティが、この場所で完全に確立されました。
フランキーはその後、1976年に施設がその歴史に幕を閉じるまで<The Continental Baths>の絶対的なレジデントDJとして君臨し続け、ニューヨークのアンダーグラウンド・シーンで誰もが無視できない重要な存在へと登り詰めました。
The Warehouse

Robert Williams(ロバート・ウィリアムズ)はニューヨークで生まれ、クイーンズで育ちました。コロンビア大学で法律を学ぶためにハーレムへ移り住んだのを機に、<The Sanctuary>や<Better Days>、<The Gallery>、<Studio 54>といったニューヨークの名だたるクラブへと頻繁に通うようになりました。
そんな数あるクラブの中でも、ロバート・ウィリアムズの人生に最も決定的な影響を与えたのが、デヴィッド・マンキューソが主宰する<The Loft(ロフト)>でした。
彼が最初にデヴィッド・マンキューソと出会った際、直接<The Loft>の招待券(インビテーション)を手渡されたことがすべての始まりでした。その夜に体験した純粋な音楽空間に完全に魅了されたロバートは、それからというもの毎週のようにロフトへと通い詰め、主宰者であるデヴィッド・マンキューソ本人とも深い親交を結んでいくことになります。
ロバート・ウィリアムズはクラブ・カルチャーに深くのめり込みすぎた結果、大学の単位を落として中退してしまいます。
その後、世界的に有名なアルヴィン・エイリーが設立したダンス・カンパニーを紹介されたことをきっかけに、今度はダンスの魅力に開眼。並外れた情熱を注ぎ込んだ彼は、すぐに黒人クラシック・バレエの名門カンパニーである<Dance Theater of Harlem(ダンス・シアター・オブ・ハーレム)>への入団を果たしました。しかし、ダンサーとしての活動だけでは十分な収入を得て生活していくことが極めて難しいという現実に直面します。
生活を立て直すため、ロバートはニューヨーク州の保護観察局で青年たちの更生を支えるカウンセラーとして働き始めました。実は、当時まだ10代の不調法なクラブキッズだったラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズと出会い、顔見知りになったのは、まさにこのカウンセラーとして働いていた時期のことでした。
ロバート・ウィリアムズは1972年頃、母親の病気と、高騰するニューヨークでの生活費を維持できなくなったことを理由に、住み慣れた街を離れてシカゴへと移住しました。しかし、シカゴへ到着した彼がすぐに気づいたのは、当時の現地のクラブシーンがニューヨークに比べて「全く面白くない」という退屈な現実でした。
シカゴの夜に物足りなさを感じていたロバートは、周囲の友人たちから「お前がニューヨークスタイルのパーティーをこの街で開いたらどうだ?」と勧められます。その言葉に背中を押され、仲間たちと共にプライベート・パーティーを企画・開催したところ、瞬く間に1,500人近くのクラウドを集める大成功を収めました。
この確かな手応えによって、本格的にクラブビジネスへ参入することを決意したロバートは、自身の精神的支柱であったデヴィッド・マンキューソに連絡を取り、アドバイスを仰ぎます。そうして1976年、マンキューソの<The Loft>の理念や音響哲学を色濃く反映したコンセプトを持つクラブ、<US Studio>をシカゴにオープンさせました。
※ロバート・ウィリアムズ自身は、この店名を周囲が呼ぶような「ユーエス・スタジオ」ではなく、本来は「アス・スタジオ」と発音するんだ、とのちに語っています。
しかし、オープンして間もなく、友人たちとの間で経営方針をめぐる激しい対立が勃発し、チームは分裂してしまいます。<US Studio>は場所を移転し、一から再オープンせざるを得ない状況に追い込まれました。この手痛い仕切り直しにあたり、ロバートはシカゴのクラウドを惹きつけるための「何か全く新しい決定打」を打ち出す必要性があると痛感していました。
そこでロバート・ウィリアムズは、本場ニューヨークへと飛びます。かつて顔見知りだったラリー・レヴァンに「新しく作るクラブのメインDJとして、シカゴに来てほしい」と直接交渉を持ちかけたのです。しかし、当時のラリーはまさに自らの理想郷である<Paradise Garage(パラダイス・ガラージ)>のオープン準備の真っ只中であり、すでにそこでのレジデント就任が決まっていたため、この誘いを断わりました。
絶対的なエースとしてラリーを招聘する計画が頓挫したロバートは、次なる一手として、かつてコンチネンタル・バスでラリーと並び賞されたフランキー・ナックルズに、ひとまず「オープニング・パーティーのゲストDJ」としてプレイしてほしいと依頼します。
住み慣れたニューヨークのシーンから離れるつもりのなかったフランキー・ナックルズは、この時点ではシカゴ行きにそれほど乗り気ではありませんでしたが、ロバートの熱心な誘いに押され、渋々そのオファーを了承することになりました。
こうして迎えた1977年のオープニング・パーティーでしたが、事前の期待とは裏腹に、フロアはそれほど盛り上がりませんでした。当時の最先端だったニューヨークのエッジなディスコサウンドは、まだシカゴの土壌には全く浸透しておらず、現地のオーディエンスがその洗練された選曲やグルーヴについていくことができなかったためです。
しかし、フランキー・ナックルズのプレイがシカゴのクラウドを完全に虜にするまでに、そう時間はかかりませんでした。
当時のシカゴには、曲と曲のテンポを完璧に合わせ、物語を紡ぐようにフロアの感情をコントロールする「ニューヨーク・スタイルの高度なDJ技術」がまだまったく伝わっていませんでした。そのため、ディスコを基調としたニューヨーク仕込みの華麗なミキシングや、空間をドラマチックに演出するフランキーのテクニックは、未体験のシカゴのダンサーたちに衝撃を与え、やがてダンスフロアに凄まじい狂乱を生み出すようになっていきます。
数回にわたってゲストDJとして出演し、そのたびに凄まじい熱狂の渦を作り出すフランキーの卓越した才能を確信したロバートは、彼に正式な「レジデントDJ」への就任を要請します。最初は渋っていたフランキーでしたが、何度かニューヨークとシカゴを往復するうちに、独特の熱量を持つシカゴの街とオーディエンスをすっかり気に入っており、このオファーを快諾することとなりました。
こうして、シカゴの音楽史、ひいては世界のダンスミュージックの歴史を塗り替えることになる伝説のクラブ、<The Warehouse(ウェアハウス)>の黄金時代が、フランキー・ナックルズの手によって本格的に幕を開けることになります。
シカゴ西部の荒れ果てた工業地帯。その一角に佇む3階建ての古い工場跡地を利用してオープンした<US Studio(アス・スタジオ)>には、店の入り口に看板すら掲げられていませんでした。その剥き出しで無骨な佇まいが、まるでただの倉庫のように見えたことから、地元のクラウドたちは親しみを込めてこの場所を「Warehouse(ウェアハウス)」と呼ぶようになり、それがそのまま歴史に名を残す正式なクラブ名として定着していくことになります。
オープン当初のクラブの収容人数は600人程度。入場料はわずか4ドルという驚くほどの安さに設定されていました。館内では、デヴィッド・マンキューソのロフトやニューヨークの会員制クラブの思想を受け継ぎ、無料でジュースやミネラルウォーター、スナック菓子などが振る舞われていました。
初期の客層はブラックのゲイ・コミュニティがほとんどを占めていましたが、フランキー・ナックルズの噂が街中に広まるにつれ、その境界線は急速に融解していきます。1970年代末頃には、人種、民族、そしてセクシャリティの壁を完全に超越した、あらゆるバックグラウンドを持つ最大2,000人もの人々が、ただ「踊るため」だけにこの熱気あふれる空間へと毎週のように詰めかけるようになりました。
そして、この熱狂を音響面から絶対的に支えていたのが、あの<Studio 54>や<Paradise Garage>、のちの<Club Zanzibar>をも手掛けた天才サウンドエンジニア、Richard Long(リチャード・ロング)でした。
彼がウェアハウスのために設計・導入した特注のサウンドシステムは、シカゴのコンクリート壁に囲まれた空間のエネルギーを限界まで引き出し、フランキーの紡ぐグルーヴを肉体的な衝撃へと変換してフロアへ降り注いでいたのです。
1977年から1981年頃にかけての<The Warehouse(ウェアハウス)>では、文字通り言葉を失うほどに強烈で、濃密なパーティーが夜な夜な繰り広げられていました。深夜に始まった狂乱が、翌日の昼の12時を過ぎても終わらないことなど、そこでは日常茶飯事の光景だったのです。
フロアを包む圧倒的な一体感、ソウルフルで、どこか神聖ですらある空気感——。それゆえに、ウェアハウスに集う人々にとって、この場所は単なる遊び場ではなく、傷ついた魂を救い、自己を解放するための「教会(チャーチ)」そのものだと言われていました。
一歩中に入れば、余計な視線を遮るように暗闇が広がり、日常の時間感覚は完全に麻痺していきます。
そこではフランキー・ナックルズが操る圧倒的な音楽の力が、社会が作り出したセクシャリティの壁を粉々に撃ち壊していました。男か女か、ストレートかゲイか、あるいは黒人か白人か。そうしたあらゆる属性や境界線(レイシズムやホモフォビア)は、剥き出しのビートと熱気の中で完全に超越され、その場にいる全員が「ただ音楽を浴び、心から楽しむこと」だけにその身を捧げていたのです。
フランキー・ナックルズが<The Warehouse(ウェアハウス)>でプレイする革新的な楽曲に衝撃を受けたクラウドたちは、週末が明けると、その興奮を求めて地元シカゴの超有名レコード店<Imports Etc.(インポーツ・エトセトラ)>へと文字通り殺到しました。
店内には「ウェアハウスで流れていた、あの最高にファンキーでストリップダウンされた曲はないか?」と熱っぽく尋ねる客が日に日に増えていきました。
この異様な熱気と需要の急増を目の当たりにしたショップのスタッフたちは、客たちが求めるレコードをすぐに見つけられるよう、店舗の一角に専用のセクションを設置。そこに「Warehouse Music(ウェアハウス・ミュージック)」という手書きのポップを掲げたのです。
この表記が、レコードを買い求めるキッズやDJたちの間でいつしか自然と略され、シンプルに「House Music(ハウス・ミュージック)」と呼ばれるようになっていきました。
メインストリームから見放され、シカゴの地下倉庫(ウェアハウス)で純粋に培養されていたディスコの遺伝子が、固有のコミュニティとレコードショップの熱量によって完全に言語化され、新たな音楽ジャンル「ハウス」が産声を上げた瞬間でした。
あまりにも爆発的な人気を獲得した代償として、<The Warehouse(ウェアハウス)>のフロアには徐々に20歳未満の荒んだ若者たちも増え始めるようになりました。それに伴い、かつて神聖な「教会」のようだったクラブの内部では、強盗などの暴力沙汰や深刻なドラッグトラブルが頻発するようになっていきます。
かつての美しく純粋だったコミュニティの調和が崩れ、治安が急速に悪化していくコントロール不可能な状態に、フランキー・ナックルズは深く辟易し、強い危機感を抱くようになりました。
自らの音楽的理想郷と安全なクオリティを取り戻すため、フランキーは1982年に自らがオーナー兼DJを務める新しいクラブ<The Power Plant(パワー・プラント)>をオープンすることを決意。シカゴのハウスカルチャーの爆心地であった<The Warehouse>のブースを、ついに去ることになりました。
フランキー・ナックルズという「優美な光」を失ったロバート・ウィリアムズでしたが、彼が<The Warehouse>の後任としてブースに呼び込んだRon Hardy(ロン・ハーディー)は、誰も予想しなかった「熱狂的な闇」をフロアに持ち込みました。
ロバートは店名を<The Music Box(ミュージック・ボックス)>へと改称し、全く新しい時代の扉を開きます。
洗練されたストーリーテリングと美しくソウルフルなグルーヴでフロアを包み込むフランキーに対し、ロン・ハーディーのスタイルは極めて過激で raw(生々しい)なものでした。ピッチを限界まで上げたディスコ・トラックや、まだ生まれたてで誰も聴いたことのない剥き出しのエレクトロニック・サウンドのデモテープを、耳を劈くような爆音で歪ませながらプレイし、フロアを文字通り狂気的な興奮へと叩き込んだのです。
こうして1980年代前半のシカゴは、自らの城<The Power Plant>でハウスの美学をよりディープに洗練させていくフランキー・ナックルズと、<The Music Box>でフロアの肉体と精神を限界まで破壊・解放し続けたロン・ハーディーという、対極にある2人の天才を同時に抱くことになります。
プレイスタイルも、集まるクラウドのエネルギーも全く異なるこの2つの聖地が、シカゴという街の中で激しく火花を散らし、お互いを刺激し合ったこと。これこそが、世界中どこを探しても存在し得なかった、あの圧倒的に濃密で強靭な「シカゴ・ハウスミュージック・シーン」の本質を形作っていく決定的な原動力となりました。
Chicago House
初期のWarehouseのサウンドは、フィラデルフィア・インターナショナル、サルソウル、ウエストエンド、プレリュードといったレーベルの音楽で、フィリーソウルやニューヨークディスコを基盤としたものでした。
それが現代のハウスミュージックに聴かれるようなサウンドに変化してきたのは、1980年頃からです。エレクトロニックなフィーリングを持ったレコードが増え、イタロディスコなどの輸入盤も目立つようになってきました。
ニューヨークでは1970年代からいち早く確立されていた「リエディット」の手法ですが、シカゴでも同様の試みが始まりました。
フランキー・ナックルズは、親友のサウンドエンジニアであるErasmo Rivera(エラスモ・リヴェラ)の協力を得て、オープンリールのテープレコーダーを用いたレコードのリエディットに着手します。イントロやブレイク部分を長く引き延ばしたり、新たなビートや効果音を加えたりすることで、フロアのダンサーがより長く、心地よく踊り続けられるような独自のトラックを仕立て上げていきました。
1980年代前半におけるRolandのドラムマシン、TR-808とTR-909の登場も、ハウスミュージックの誕生において決定的な出来事でした。
TR-808は、Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)やAfrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)、Arthur Baker(アーサー・ベイカー)、YMOといった一部の先鋭的なアーティストがいち早く取り入れていたものの、その機械的なサウンドゆえに、当時はリアルな生ドラムの質感を求めていた一般的なミュージシャンからは不評でした。そのため発売当初は正当に評価されず、のちに中古市場で格安で投げ売りされるようになります。
しかし、その安価さと、何よりフロアを揺るがす強力な低音やパーカッションの音は、独自の感性を持つDJたちから高く評価されました。
フランキー・ナックルズもその価値を見出した一人であり、1984年にはデトロイトのDerrick May(デリック・メイ)からTR-909を譲り受けます。そして、既存のレコードを再生しながらTR-909のタフなリズムをリアルタイムでミックスするなど、自身のDJプレイに大胆に取り入れていきました。
フランキー・ナックルズがプレイする<The Warehouse>のサウンドに強い影響を受けた地元の若いインディーズ・アーティストたちは、当時二束三文で売りに出されていたTR-808やTR-909、その他のチープなシンセサイザーなどの機材を買い集め、自分たちの手でディスコサウンドを表現しようと楽曲制作を始めました。
プロ用の機材ではないため、出来上がったサウンドは本物のディスコのような華麗で豪華な演奏とは程遠いものでした。しかし彼らは、リフレインするこのチープで機械的なグルーヴこそが、かえってフロアに強烈な陶酔感を生み出すという事実に気づき始めます。
こうしたシカゴのインディーズ・アーティストたちの中から、最初に頭角を現したのがJamie Principle(ジェイミー・プリンシプル)とJesse Saunders(ジェシー・サンダース)でした。
1982年頃には、ジェイミー・プリンシプルが制作した「Your Love」や「Waiting On My Angel」といった楽曲のデモテープがフランキー・ナックルズの手へと渡ります。そのクオリティとフロアへの適正を見抜いたフランキーは、自身のクラブでこれらの楽曲をヘビープレイし、公式にリリースされる前からシカゴのクラウドの間で大ヒットさせていきました。
Frankie Knuckles & Jamie Principle – Your Love
Jamie Principle – Waiting On My Angel
デモテープの段階でヒットしていたジェイミー・プリンシプルの楽曲に対し、最初に「レコード(12インチ)」としてプレスされ、世に送り出されたのはジェシー・サンダースの「On & On」でした。
ジェシーは、地元のインディーズレーベルのオーナーを父に持つVince Lawrence(ヴィンス・ローレンス)とタッグを組み、1984年にこのレコードを自主制作。これが、世界で初めて商業的にリリースされたハウスミュージックのレコードとなりました。
Jesse Saunders – On and On
「On & On」のドラムマシンにベース、リフという極めてシンプルな構造のサウンドは、シカゴ中の若者たちに「これなら自分にも作れそうだ」という強烈なインスピレーションを与え、多くのハウスミュージック・プロデューサーを輩出する決定的なきっかけとなりました。
これを機に、Marshall Jefferson(マーシャル・ジェファソン)、Farley “Jackmaster” Funk(ファーリー・”ジャックマスター”・ファンク)、Steve “Silk” Hurley(スティーヴ・”シルク”・ハーレイ)、Chip E(チップ・E)といったアーティストたちが次々とブレイク。
彼らの活躍によってシカゴのハウスミュージック・シーンは急成長を遂げ、その熱狂はやがてアメリカ国内に留まらず、イギリスをはじめとする世界中へと急速に広がっていくことになります。
Frankie KnucklesのDJセット
The Warehouseプレイリスト
Ashford & Simpson – It Seems To Hang On
Roy Ayers – Running Away
George Duke – I Want You For Myself
Jimmy Bo Horne – Spank
Sergio Mendez – The Real Thing
Giorgio Moroder – E=MC²
Positive Force – We Got The Funk
Sylvester – Over and Over
Loleatta Holloway – Love Sensation
My Mine – Hypnotic Tango
Raw Silk – Do It To The Music


