The Warehouse(ウェアハウス)ハウスミュージックの夜明け – ハウスミュージックの歴史④

  • URLをコピーしました!

70年代後半はニューヨークを中心にディスコミュージックが隆盛を極めました。

しかし、急激に成長した過剰なディスコブームに辟易した人々からの反発を生み、ロック系のラジオ・パーソナリティーを中心に「Disco Sucks」という反ディスコ運動を生み出すことになりました。

「Disco Sucks」キャンペーンが拡大し、勢力を増したころに事件が起きました。1979年7月12日、ラジオ局WLUPのディスク・ジョッキーSteve Dahl(スティーヴ・ダール)が、「Disco Demolition Night」というイベントをシカゴの野球場にて行いました。

来場者に事前にディスコ・レコードを持って来るように呼びかけ、山積みにされた大量のディスコ・レコードをダイナマイトで爆破するというイベントは、スタンドから何千人もの観客がフィールドに乱入し、怪我人が出るほどの事件となり、ディスコブームの一時代の終わりを象徴していました。

「ハウスは、ディスコの復讐なんだよ。」

ハウスミュージックの生みの親といわれるFrankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)が残したこの言葉は、ハウスミュージックがディスコミュージックの影響を受けて生まれた音楽であるということを証明しています。

ディスコミュージックはブームこそ過ぎ去りましたが、火が消えたわけではありませんでした。地下へと潜り、アンダーグラウンドシーンのフィルターを通り、80年代にハウスミュージックとして進化を遂げます。

現代のハウスミュージックへと繋がる原型を生み出したのが、フランキー・ナックルズと、シカゴのクラブ<The Warehouse(ウェアハウス)>を中心とした音楽シーンでした。

目次

Frankie Knuckles

Frankie Knuckles

Frankie Knuckles、本名Francis Warren Nicholls, Jr. (フランシス・ウォーレン・ニコルズ・ジュニア)は、1955年1月18日にニューヨークのブロンクスで生まれました。

ファッション専攻の学生だった頃に、<The Loft><The Sanctuary><Better Days><Tamburlaine>などのクラブに通い始めました。ファッション好きでデザイナー志望だったLarry Levan(ラリー・レヴァン)と出会い、行動を共にするようになり、Nicky Siano(ニッキー・シアーノ)のクラブ<The Gallery>でスタッフとして働くなどして、クラブ界隈で知られるようになります。

1971年にニューヨークの<Better Days>で初めてDJプレイを経験しました。<Better Days>では、Tee Scott(ティー・スコット)がレジデントとしてプレイし、週5日オープンしていましたが、クラブの営業拡大のために週7日でオープンすることになり、これ以上の日数やりたくないティー・スコットの代わりに、フランキー・ナックルズが月曜と火曜の週2日やることになりました。

フランキー・ナックルズはその時点ではDJではなく、レコードを持っていなかったので、出来るとは思っていませんでしたが、ティー・スコットに促されたので仕事を引き受けることにしました。しかし、案の定キャリアの浅いフランキー・ナックルズには、思うような結果が出せずに半年ほどで解雇されてしまいました。

それを見かねたラリー・レヴァンが、自身がレジデントとしてプレイしていたクラブ<Continental Baths>に呼んで、平日にプレイするよう勧めました。

コンチネンタル・バスはニューヨークで最もホットなゲイスポットとして知られ、浴場、サウナにディスコクラブが合わさったような複合施設で、流行に敏感なニューヨーカーに評判の店でした。

月曜日と火曜日をフランキー・ナックルズが担当し、それ以外をラリー・レヴァンが担当することになりました。ラリー・レヴァンとDJテクニックについて話したり、レコードの情報を交換したりと、お互いを高めあっていました。

やがて、ラリー・レヴァンはサウンドエンジニアのRichard Long(リチャード・ロング)が運営するクラブ<SoHo Place>に引き抜かれたため、<Continental Baths>の全ての曜日をフランキー・ナックルズが担当することになりました。ここでの経験が、フランキー・ナックルズをDJとして目覚めさせ、飛躍的に成長させることになりました。

<Continental Baths>では、1976年に店が閉店するまでレジデントを務めました。

The Warehouse

Robert Williams

Robert Williams(ロバート・ウィリアムズ)はニューヨークで生まれ、クイーンズで育ちました。コロンビア大学で法律を学ぶためにハーレムへ移り住んだ際に、<The Sanctuary><Better Days><The Gallery><Studio 54>など、ニューヨークのクラブに頻繁に通うようになりました。

とくにロバート・ウィリアムズに大きな影響を与えたのが、David Mancuso(デヴィッド・マンキューソ)の<The Loft>でした。最初にデヴィッド・マンキューソと会った時に、<The Loft>の招待券をもらったのが始まりで、それから毎週のように<The Loft>へ行き、デヴィッド・マンキューソと親交を深めました。

ロバート・ウィリアムズはクラブに通い過ぎたため、単位を落とし大学を中退した後、世界的に有名なAlvin Aileyの設立したダンスカンパニーを紹介されると、ダンスに夢中になり、すぐに名門企業であるDance Theater of Harlemに入社しました。しかし、ダンスではお金が稼げず生活が出来ないことに気付き、その後、ニューヨーク州の保護観察局でカウンセラーとして働き始めました。当時、10代だったラリー・レヴァンとフランキー・ナックルズと顔見知りになったのはこの時期でした。

ロバート・ウィリアムズは1972年頃、母親の病気と、ニューヨークでの生活費が払えなくなったことが理由で、シカゴへ移りましたが、シカゴのクラブシーンは全く面白くないということにすぐに気が付きました。

「ニューヨークスタイルのパーティーをシカゴで開いたらどうだ?」と、友人たちに勧められたため、一緒にプライベートパーティーを開きました。そのパーティーが1500人近く集める成功を収めたため、本格的にやろうと決意し、デヴィッド・マンキューソに相談した末、1976年に<The Loft>をコンセプトとして作った<US Studio>というクラブをオープンしました。※ロバート・ウィリアムズは店名を<ユーエス・スタジオ>ではなく、本当は<アス・スタジオ>と読むんだと言っています。

しかし、すぐに友人たちと経営方針で揉めて分裂しました。<US Studio>は移転し、再オープンする必要があったため、ロバートは何か新しいものを取り入れて、集客をする必要性があると感じました。

ロバート・ウィリアムズはニューヨークに行き、DJとしてラリー・レヴァンにシカゴに来てほしいと頼みましたが、ラリー・レヴァンはオープン準備中だったパラダイス・ガレージでのレジデントが決まっていたために断られました。そのため、ロバートはとりあえずオープニングパーティーのDJをフランキー・ナックルズに頼むことになり、フランキー・ナックルズも渋々それを了承しました。

1977年のオープニング・パーティーは、それほど盛り上がりませんでした。ニューヨークのディスコサウンドはシカゴでは浸透しておらず、シカゴの人々がついて来れなかったためです。

しかし、フランキー・ナックルズのプレイが人気を獲得するのに、そう時間は掛かりませんでした。シカゴではニューヨークのようなDJ技術は全く伝わっていなかったため、ディスコを基調としたニューヨーク仕込みのフランキー・ナックルズのDJテクニックはダンスフロアに狂乱を生み出しました。何度かゲストDJとして出演してもらった後、ロバートはレジデントをフランキー・ナックルズにお願いし、その頃にはフランキー・ナックルズもシカゴの街を気に入ってました。

シカゴ西部の荒れ果てた工場地帯にある3階建ての工場にオープンした<US Studio>は店の入口に看板がなく、倉庫のような外観だったため、地元民から「Warehouse(ウェアハウス)」と呼ばれるようになり、それがそのままクラブ名として定着しました。

クラブの収容人数は600人程度で、入場料は4ドルという安さでした。無料で提供されるジュースや、ミネラルウォーター、スナック菓子などがあり、初期のころの客層は黒人の同性愛者がほとんどでしたが、70年代末ごろには多種多様な人種、民族、性別を超えた2000人もの人が踊るために詰め掛けるようになりました。

サウンドシステムは<Studio 54><Paradise Garage> <Zanzibar>などを手掛けたリチャード・ロングが担当しています。

77年から81年くらいには本当に強烈なパーティーが行われていて、夜中から昼の12時まで終わらないことが普通でした。

パーティーは一体感があり、ソウルフルで、スピリチュアルなため、ウェアハウスに来る人にとっては教会のような場所だと言われていました。クラブの中は暗く、時間感覚が薄れ、性別の枠を超越するように音楽がセクシュアリティの壁を撃ち壊し、性別も人種も超えて、誰もが楽しむことだけを考えていました。

フランキー・ナックルズが<Warehouse>でプレイする曲を聴いた客が、地元シカゴの有名レコード店<Importes Etc.>へ殺到し、「ウェアハウスで流れているような曲」を求める客が増えたために、ショップの一角に「ウェアハウスミュージック」と書かれたコーナーが設けられました。それが、いつしか略され「ハウスミュージック」と書かれるようになり、ハウスミュージックという音楽ジャンルが生まれました。

人気が出過ぎたためか、徐々に<Warehouse>には20歳未満の若者たちも増え始め、クラブの中では強盗などの暴力沙汰や、ドラッグの問題などが起こるようになり、コントロール不可能な状態に辟易したフランキー・ナックルズは、1982年に自分のクラブ<The Power Plant>をオープンし、<Warehouse>を去ることになりました。

ロバート・ウィリアムズは、フランキー・ナックルズがWarehouseを去ったために、後任のDJとして、Ron Hardy(ロン・ハーディー)を迎え入れて、店名も<The Musicbox>と変更して再オープンさせました。

フランキー・ナックルズ、ロン・ハーディーという2人の天才的なDJによって、競い合うようにシカゴのハウスミュージックシーンが形成されていくことになります。

Chicago House

初期のWarehouseのサウンドはフィラデルフィア・インターナショナル、サルソウル、ウエストエンド、プレリュードといったレーベルの音楽で、フィリーソウルやニューヨークディスコを基盤としたものでした。

それが現代のハウスミュージックに聞かれるようなサウンドに変化してきたのは1980年ごろからです。エレクトロニックなフィーリングを持ったレコードが増えて、イタロディスコなどの輸入盤も目立つようになってきました。

ニューヨークではいち早く70年代からリエディットの手法が確立されていましたが、シカゴでもフランキー・ナックルズが親友のサウンドエンジニアErasmo Riveraの協力を得て、オープンリールのテープレコーダーを使って、イントロやブレイクを引き延ばしたり、新たなビートやサウンドを加えてダンサーが踊りやすいようにレコードのリエディットを始めました。

80年代前半にRoland TR-808とTR-909が登場したことも大きな出来事でした。TR-808は、Marvin Guy、Afrika Bambaataa、Arthur Baker、YMOなど、一部のアーティストは早くから取り入れていましたが、その機械的なサウンドのため、リアルなドラムサウンドを求めていたミュージシャンからは不評でした。発売当初はあまり評価されず、中古として格安で売りに出されるほどでした。

しかし、強力な音が出せることでDJたちには評価されて、フランキー・ナックルズは84年にDerrick May(デリック・メイ)からTR-909を譲り受け、DJプレイにTR-909の音を混ぜるなどして使用していました。

フランキー・ナックルズがプレイする<Warehouse>のサウンドに影響を受けたインディーズの若いアーティストたちが、2束3文で売りに出されていたTR-808やTR-909、その他のチープな機材を使って、自分なりにディスコサウンドを表現しようと音楽を作りはじめました。もちろん、そのサウンドは華麗なディスコサウンドと呼べるものではありませんでしたが、反復するこの機械的なサウンドが陶酔感を生み出すことに気づき始めます。

インディーズ・アーティストの中から、最初に名声を得たのはJamie Principle(ジェイミー・プリンシプル)とJesse Saunders(ジェシー・サンダース)でした。

82年にテープ作品としてジェイミー・プリンシプルの「Your Love」「Waiting On My Angel」などがフランキー・ナックルズの手に渡り、ヘビープレイされていました。

Frankie Knuckles & Jamie Principle – Your Love

Jamie Principle – Waiting On My Angel

しかし、最初にレコードとしてプレスされたのは、Jesse Saundersの「On & On」でした。地元のレコードレーベルのオーナーの息子Vince Lawrenceと組んで、1984年にレコードを制作し、世界で初めてリリースされたハウスミュージックとなりました。

Jesse Saunders – On and On

「On & On」のドラムマシンにベース、リフというシンプルな構造のハウスミュージックを聞いたシカゴ中の若者たちが、自分にも作れそうだと感じ、多くのハウスミュージックのプロデューサーを生み出すきっかけとなりました。

その中から、Marshall Jefferson、Farley “Jackmaster” Funk、Steve Silk Hurley、Chip Eなどがアーティストとしてブレイクし、シカゴのハウスミュージックシーンは急成長を遂げ、世界へと広がっていくことになりました。

Frankie KnucklesのDJセット

The Warehouseプレイリスト

Ashford & Simpson – It Seems To Hang On

Roy Ayers – Running Away

George Duke – I Want You For Myself

Jimmy Bo Horne – Spank

Sergio Mendez – The Real Thing

Giorgio Moroder – E=MC²

Positive Force – We Got The Funk

Sylvester – Over and Over

Loleatta Holloway – Love Sensation

My Mine – Hypnotic Tango

Raw Silk – Do It To The Music

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次