Paradise Garage(パラダイス・ガレージ)ダンスの聖地 – ハウスミュージックの歴史③

パラダイスガレージ
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1970年代後半になると、映画「サタデーナイトフィーバー」の大ヒットによるディスコの大流行や、その反動によってロック専門局のラジオDJが巻き起こしたディスコ反対運動「Disco Sucksキャンペーン」など、良くも悪くもディスコサウンドがクラブ業界の中心となっていました。

1978年のオープンから1987年のクローズまで、Paradise Garageの存在した時代はダンスミュージックシーンのターニング・ポイントと言っても良いかもしれません。

数千人を収容出来るスーパークラブの建設、神格化されるほどのカリスマ性をもったDJの誕生、そして、DJがプロデュース業を始めたり、レコードの12インチシングルが誕生し、楽曲のリミックスが開始されたりと、現在のダンスミュージックシーンの礎が築かれた時代でした。

その時代の王様として君臨していたのが、「Paradise Garage」と、そのレジデントDJである「Larry Levan」でした。

目次

Larry Levan(ラリー・レヴァン)

Larry Levanは1954年7月20日にブルックリンで生まれました。出生名は”Lawrence Philpot”(ローレンス・フィルポット)ですが、父親がいないため、母親の旧姓である”Levan”を使用していました。

先天性の心疾患があり、幼い頃から喘息に苦しんでいました。ブルース、ジャズ、ゴスペルなどの音楽が好きだった母親の影響で、3歳からレコードプレーヤーで音楽を聞いて育ちました。

1970年代初頭、ラリーはデザイナー志望だったため、高校を中退し、ファッション工科大学(FIT)の学生とつるむようになり、その中のひとりにFrankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)がいました。

1歳年下のフランキーとはすぐに意気投合し、夜な夜な一緒にクラブへ繰り出しました。2人はすぐにニューヨークのクラブ界隈で、有名なクラブキッズとして認知されていきました。

David Mancuso(デヴィッド・マンキューソ)がオーガナイズするパーティー「The Loft(ロフト)」にフランキーを初めて連れて行ったのもラリーでした。

「それまでの人生で体験したことのない場所で、別世界のようだった。音楽も最高に良かった。」

The Loftはラリーとフランキーに大きな影響を与え、The Loftをきっかけに小さなパーティーネットワークが出来ていきました。

1973年にNicky Siano(ニッキー・シアーノ)のThe Gallery(ギャラリー)がオープンすると、常連だったラリーとフランキーはスタッフとして働くことになりました。風船を飾り付けたり、ドリンクや軽食の準備をしながら、合間にニッキーからDJ技術を学んでいました。

その後、クラブ付きの同性愛者向け複合施設 The Continental Baths(コンチネンタル・バス)に通いつめて、フロアマネージャーに気に入られた2人は、DJをするチャンスをもらいました。やがて、レジデントDJの座を勝ち取り、月曜日、火曜日をフランキーが、そして、水曜日から日曜日までをラリーがプレイしました。

1974年、コンチネンタル・バスで人気を得たラリーは、サウンドエンジニアのRichard Long(リチャード・ロング)が主催するSoHo Place(ソーホー・プレイス)からレジデントDJのオファーを受けました。コンチネンタル・バスのプレイはフランキーに引き継ぎ、自身はソーホー・プレイスへと移籍しました。

オタク気質のリチャード・ロングの作るサウンドシステムは優れていて、1970年代半ばにはサウンドシステム業界の第一人者となっていました。優れたサウンドに、頭角を現しはじめたラリーのプレイが掛け合わさり、ソーホー・プレイスはあっという間に人気店になりました。

しかし、ソーホー・プレイスはリチャード・ロングの仕事場であるアパートメントで行われていたため、近隣住民との騒音問題が起こり、裁判沙汰の末、1975年に閉鎖されることになりました。

伝説のクラブParadise Garage

1965年にMichael Brody(マイケル・ブロディ)は、当時ABCパラマウントで働いていたMel Cheren(メル・シェレン)とファイアアイランドで出会い、恋人同士になりました。

ファイアアイランドはニューヨークから60マイル離れた場所にある島で、ゲイコミュニティの男性にとっては楽園と呼ばれていました。

Michael BrodyとMel Cheren

友人に連れられていったThe Loftでの光景に魅せられ、マイケルとメルはThe Loftのような雰囲気を持ちながら、さらに規模の大きいディスコクラブをオープンしたいと考えるようになりました。

1969年のストーンウォールの反乱以降、1970年代のLGBTコミュニティの境遇は飛躍的に向上し、ゲイカルチャーと同時にダンスミュージックコミュニティも発展し、バーやクラブが次々とオープンしている頃でした。

やがて2人は別れることになりますが、マイケルがクラブをオープンする際に、メルが出資するなど、家族のような関係が続いていきます。

メルはABCパラマウントを辞めた後、Scepter Records(セプター・レコード)で重役を務めました。

1973年にUltra High Frequency「We’re On The Right Track」をセプターから発売した際には、DJたちがレコードの2枚使いで創造性を発揮することが出来るように、メルのアイデアで世界で初めてB面にボーカルなしのインストルメンタルバージョンが収録されたレコードとなりました。

その後、1976年には自身でWest End Records(ウェスト・エンド・レコード)を立ち上げ、世界で初めて商業的な12インチシングルを発売するなどダンスミュージックシーンに大きく関わっていきました。

メルと別れたマイケルは、1974年に古い倉庫跡地にReade Street(リード・ストリート)というクラブをオープンさせましたが、経営は行き詰まっていました。そんな最中、ソーホー・プレイスが閉店することを知り、ソーホー・プレイスでのラリーのプレイを見ていたマイケルは、ラリーにリード・ストリートでプレイするようにオファーをしました。

ラリーはマイケルが何者なのか全く知りませんでしたが、ちょうどソーホー・プレイスが閉鎖してタイミングが良かったため、すぐに承諾しました。

この頃には、ラリーは技術的な完成度の高いミックスよりも、それ以上のものを求め、実験的なDJプレイを重ねていました。

ソーホー・プレイスのラリーのお客さんが、そのままリード・ストリートに流れて店の人気が出始め、徐々にラリー・レヴァンの人気も高まって行きました。

しかし、倉庫跡地に立てられたクラブが大家とのトラブルを頻発するようになったため、マイケルは別の場所に理想のクラブを作ることを決心し、1976年にリード・ストリートを閉店しました。

すぐに新しい場所を探し始めたマイケルは、ソーホーのキング・ストリートに古い巨大なガレージを発見しました。巨大すぎるその空間をクラブとして開店させるには多額の資金が必要だったため、メルを含め多数の人に出資を募りました。しかし、集めた11万ドルはサウンドシステムの購入と家賃の前払いでほとんどのお金を費やし、オープンするための改装工事費が足りませんでした。

窮地に追い込まれたマイケルは、”コンストラクション・パーティー”と称して、建設中の不完全なクラブをオープンすることを思いつきました。1977年1月から毎週金曜日に行われたこのパーティーは未完成のディスコとして人気を集め、得た収入をクラブの改装費にあてることで、段階的にクラブを完成させることが出来ました。

1978年2月にようやく完成したクラブのグランド・オープンを企画しましたが、その結果は悲惨なものでした。この時期、ニューヨーク市を猛吹雪が襲い、その影響で新しく購入したサウンドシステムが届くのが遅れました。オープン当日までに準備が間に合わず、寒波の中、数千人のお客さんを外で何時間も待たせることになってしまいました。

怒ったお客さんの中には、2度と来店しなかった人も多く、信頼を回復するのに2年ほど時間がかかりました。

それでも、巨大なダンスフロアに優れたサウンドシステム、ラリーのDJプレイが、ディスコ本来の魅力を具現化した場所として、街で最もシリアスなダンサーたちから評判を得て、ニューヨークのアンダーグラウンドシーンの聖地となっていきました。

客層はアフリカン・アメリカンとヒスパニックのゲイ男性が多く、土曜日の夜はゲイ向け、金曜日の夜はストレート向けのイベントになっており、キース・へリング、グレイス・ジョーンズ、カルバン・クラインなどの有名人も常連でした。

ラリーのDJプレイは、細かなミックスの技術よりも、組み合わせるレコードがどのように会話するのかに重点を置いていて、Nicky Siano、David Mancuso、Steve D’Aquisto、Michael Cappello、David Rodriguezなどから大きな影響を受けて、先人たちのアイデアを吸収し、それをさらに一歩進めていました。

ラリー・レヴァンがプレイするサウンドは、いつしかガラージと呼ばれ、土曜日の朝になると、キング・ストリートから2ブロック先にあったレコード店「ヴァイナル・マニア」に、ラリーがプレイしたレコードを求めてお客さんが殺到しました。

1981年ごろから同性愛者を中心にAIDSが蔓延し始め、ニューヨークのゲイコミュニティにも急速に拡がっていき、順調だったパラダイス・ガレージにもその暗い影を落とします。

1987年、パラダイス・ガレージは、大家と10年契約で借りていた敷地のリースが切れるタイミングでした。パラダイス・ガレージは地域のトラブルの元であると警察と地域住民に睨まれていたため、大家は更新を許可せずに立ち退きを命じました。移転するか、閉店するかを迫られたマイケルでしたが、自分にはもう残された時間がないことを悟っていました。マイケルはAIDSを発症していたのです。1987年当時、AIDSに効果のある治療薬はありませんでした。

閉店することを決意したマイケルは、事務所に従業員とラリーを呼び集め、自分の病とクラブの閉店を告げました。従業員はショックで声を詰まらせ、ラリーは目に涙を浮かべ、事務所を飛び出し、誰もいないクラブでスピーカーのドライバーが壊れるまでレコードの音量を上げ続けました。

誰もが2度とパラダイス・ガレージのような場所が現れないことを感じていました。

1987年9月末に行われた2日間のクロージングパーティーでは、14,000人が訪れ、10年間続いたパラダイスガラージの伝説に幕を下ろしました。

Paradise Garageはダンスミュージックの聖地として、多くの人々に影響を与えました。その影響を受けた人たちによってガラージ・サウンドは脈々と受け継がれ、現在も大きな影響力を持ち続けています。

Paradise Garageのサウンドシステム

ラリーとパラダイス・ガレージが崇拝されるようになった要因の一つは、Richard Long(リチャード・ロング)と共に設計したサウンドシステムにあります。

リチャード・ロングは大学院のエンジニア出身のオタク気質で、メガネ姿に、髪は長くベタついて外見には無頓着だったと言われています。また、彼は周囲のことをあまり気にしていないような人物でした。

リチャード・ロングは、最高のサウンドシステム設計者と言われており、スピーカーを構築し、クラブで最大限のエネルギーを引き出す方法と、部屋の音響と時間の整合性をデザインする方法を知っていました。

当初はパラダイス・ガレージのサウンドはThe Loft(ロフト)のシステムを設計したアレックス・ロズナーが担当するはずでした。

アレックス・ロズナーは、ロフトシステムの基礎をパラダイス・ガレージにエクスポートし、メインルームに必要な計算を行いました。クリプシュホーンを使ったシステムは本当に甘いサウンドで、ロフトではとても素敵に聞こえました。しかし、パラダイス・ガレージはロフトよりも大きなスペースのため、パワーが足りないとラリーは考えました。

そこでラリーは、リチャード・ロングを雇って、精度とパワーを組み合わせたシステムを構築してもらうようにマイケルに促しました。マイケルはオーディオについてあまり知らなかったため、ラリーに一任し、システム担当者の変更が行われました。」

David Mancusoは、ダンサーが耳を傷つけないボリュームである100デシベルで可能な限り正確にサウンドをレンダリングするようなサウンドシステムが、ダンサーは最高レベルのエネルギーを持続出来ると固く信じていました。

一方、ラリーとリチャード・ロングは、ダンサーが音楽の力に圧倒されるように、理想的な音量は130デシベル以上が必要と考えました。(※130デシベルでは耳に相当なダメージを与えるため、実際にはもう少し抑えていたのではないかと考えられる。)

リチャード・ロングはレヴァンとの話し合いで、クリプシュホーンでは「低音を適切に再生することはできず、特に、ガレージに必要なパンチのきいたレベルのディープベースが生み出せない」と判断しました。ガレージで改装工事が行われている間に4つのコーナースピーカーをWaldorfとJBLに置き換えました。工事が終わりに近づいたとき、Waldorfとその他の小さなサブウーファーを側面に沿って配置し、天井に6グループのツイーターを分配しました。

こうして、かつてないサウンドシステムが完成し、多くの人たちに史上最高のサウンドと言わしめました。

しかし、サウンドシステムに批判的な声がなかったわけではありません。

「あまりの音量に数分しかいられなかった。」

「あと10デシベル高かったら耳に障害を受け難聴になるレベルだ」

などの厳しい声もありました。

ラリーは「科学者」であり、DJでありリミキサーでもありました。パラダイス・ガレージにはラリーの専用ベッドルームがあり、クラブ内で生活していたため、サウンドの研究を始めると、一歩も外に出ない日も珍しくありませんでした。

ダンスフロアのクラウドの数や、湿度などにより、会場の音響は常に変化していたため、夜通しラリーはシステムの微調整をし、毎週金曜日と土曜日にはリチャード・ロングがシステムのメンテナンスし、常により良いサウンドを求めてアップデートを行っていました。

推定では、ガレージは80年代初頭の時点で50万ドルのサウンドシステムになり、維持には高額な費用がかかりました。

リチャード・ロングは1986年にエイズによって亡くなるまで、Paradise Garageの他にも、Studio 54、Zanzibar、Warehouseなど数多くのクラブのサウンドシステムを設計し、その名を残しました。

同時代の天才DJたち

Jerry Bean Benites(ジェリービーン・ベニテス)
Electric Circus、Experiment 4、Hurrah、Xenon、Paradise Garage、Studio54などニューヨークの名だたるクラブをDJとして渡り歩き、1981年にはFunhouseでレジデントDJとしてプレイしました。マドンナのデビュー当時の恋人で、マドンナの他、ホイットニー・ヒューストン、マイケル・ジャクソン、ポインター・シスターズなどのプロデュースも行いました。

Shep Pettibone(シェップ・ペティボーン)

制作とミキシングに長けていて、人気絶頂期の1980年代、Pet Shop Boys、New Order、Depeche Mode、Janet Jackson、Whitney Houston、George Michaelなどのプロデュース、リミックスを行いました。また、 Prelude Recordsや、Salsoul Recordsからリミキサーとしてダンスフロアに適した長尺のリミックスを多数リリースし、クラブやチャートでの成功に貢献した。

Tom Moulton(トム・モウルトン)

10代から音楽業界で働き、キャリアの初めは自宅の機材でレコードをミックスし、事前に録音したテープをフロアで流すなどしていました。73年からはリミキサーとして活動を始め、短い曲をリエディットして引き伸ばす”Extended Mix”を生み出しました。メル・シェレンの「West End Records」から、世界で初めてリリースされた12インチシングルを発明したのもトム・モウルトンです。また、ブラック・ミュージックの愛好家として、ビルボード誌のディスコ・コラムも担当していました。

Tony Hunphries(トニー・ハンフリーズ)
KISS-FMでラジオDJとして活動しながら、1982年からニュージャージーのZanzibarでレジデントDJを務めました。Zanzibarのサウンドシステムはリチャード・ロングが設計しており、ガラージ・サウンドを継承した「ジャージー・サウンド」と呼ばれ、絶大なる人気を得ていました。

Larry Patterson(ラリー・パターソン)

Better DaysやZanzibarでレジデントDJを務めました。多くのDJからリスペクトを集めていました。David Mancusoも心を許す人物でした。

Frankie Crocker(フランキー・クロッカー)

ニューヨークの黒人ラジオ局WBLSのラジオDJで、ニューヨークで最も影響力のあるラジオDJでした。ラリー・レヴァンと仲が良く、ラリーのプレイした曲を翌日のラジオで放送することもよくありました。

Larry LevanのDJセット

Larry Levanのプレイリスト

Instant Funk – I Got My Mind Made Up

First Choice – Love Thang (Remix by Tee Scott)

Queen Samantha – Take A Chance

Thousand Finger Man (12” Extended Version)

Black Ivory – Mainline

Dan Hartman – Vertigo/Relight My Fire ft Loleatta Holloway

Inner Life – I’m Caught Up (In a One Night Love Affair)

Patti Labelle – Music Is My Way Of Life

Martin Circus – Disco Circus

People’s Choice – Do it anyway you wanna

Gino Soccio – Dancera

T-Connection – At Midnight

Loose Joints ‎– Is It All Over My Face [Larry Levan Remix] 

Sharon Brown-I Specialize In Love

Edgar Winter – Above and Beyond (Instrumental)

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