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Detroit Techno(デトロイト・テクノ)モーターシティの宇宙 – ハウスミュージックの歴史番外編②

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1988年にコンピレーション・アルバム「Techno! The New Dance Sound of Detroit」が発売され、テクノという新たなフォーマットが世界に知られることになりました。

デトロイトテクノが世界への扉を開き始めた同じ年に、デトロイトのダウンタウンには一軒のクラブ<The Music Institute(ミュージック・インスティテュート)>がオープン。

シカゴのクラブに影響を受けたChez Damier(シェ・ダミエ)、Alton Miller(アルトン・ミラー)、George Baker(ジョージ・ベイカー)によって設立された<Music Institute>は、デトロイトテクノの象徴なクラブとなりましたが、それまで散らばっていたデトロイトのダンスミュージックシーンを”ファミリー “としてまとめ、先導する教育的な側面も持っていました。

アンダーグラウンドなコラボレーションを活発化させることで、ベルヴィル・スリーが作り出した新たなサウンドに影響を受けた多くのフォロワーを生み出し、デトロイトのテクノシーンの発信地となる役割を果たしました。

<Music Institute>の常連の中には、Cral Craig(カール・クレイグ)、Robert Hood(ロバート・フッド)、Kenny Larkin(ケニー・ラーキン)や、カナダの国境にあるウィンザーから通っていたRichie Hawtin(リッチー・ホウティン)、弟のMatthew Hawtin(マシュー・ホウティン)、Daniel Bell(ダニエル・ベル)などの姿が。

<Music Institute>について、カール・クレイグは「デトロイトのクラブの中でパラダイス・ガレージやミュージックボックスに最も近いものだった」と述べています。

目次

The Music Institute

高校時代の同級生だったジョージ・ベイカーとアルトン・ミラーは、10代の頃からクラブに通うようになり、80年代初頭には、Ken Collier(ケン・コリアー)がDJとしてプレイするデトロイトで最も人気のあったクラブの一つである<L’uomo>の常連でした。

1986年、叔父と叔母の家に住むためにシカゴからデトロイトの郊外にあるイースト・ランシングにシェ・ダミエが引っ越してきてすぐに、ダミエは共通の友人に紹介され、アルトン・ミラーと知り合い、同じ週にジョージ・ベイカーとデリック・メイとも知り合いました。

最初に聴いたDJはFarley “Jackmaster” Funk(ファーリー・ジャックマスター・ファンク)とSteve “Silk” Hurley(スティーブ・シルク・ハーレー)だったというダミエは、14歳の頃から<Warehouse(ウェアハウス)><Power Plant(パワープラント)><Music Box(ミュージックボックス)>など有名なクラブで踊っていたため、シカゴで顔が利くように。

ダミエ、ベイカー、ミラーの3人は、メイと一緒に定期的にシカゴのクラブに通い、時にトロントのTwilight Zone(トワイライト・ゾーン)や、ニューヨークのParadise Garage(パラダイス・ガレージ)にも行っていました。

パーティー・キッズだった彼らは、シカゴのクラブに何度も足を運び、Ron Hardy(ロン・ハーディー)やFrankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)のプレイを実際目の当たりにしているうちに、デトロイトにもシカゴのようなアンダーグラウンドなクラブの要素を持ち込もうと考え始めました。

<Paradise Garage>の常連客はラリー・レヴァンのセットを「ミサ」と呼んでいましたが、ミラーも<MusicBox>での体験をスピリチュアルな言葉で表現しています。

「あれは息を呑むような、畏敬の念を抱かせるような、インスピレーションを与えてくれるものだった。究極のクラブ体験ができる全てが<MusicBox>にあったんだ。ロン・ハーディーと観客との信頼関係は、まさに信じられないものだった」

デトロイトのクラブには満足していなかった彼らは、これらの経験をデトロイトに持ち込もうと計画しますが、それは大きな挑戦でした。お金もなく、経験もなく、さらにデトロイトのダウンタウンはさびれていたからです。1988年当時のデトロイトの殺人率はワシントンD.C.に次いで2番目であり、市民はダウンタウンへ出かけること、特に夜は危険だという認識を持っていました。

構想から<Music Institute>をオープンするまでに1年の歳月がかかりました。1987年に、ウェイン州立大学の近くにある古い建物を改装しするのに3ヶ月を費やしましたが、ボイラーシステムの設置に数千ドルの費用がかかることを知り、断念せざるを得なくなりました。その後、ブロードウェイ1315番地にある4階建ての建物に最適なスペースが見つかったため、急ピッチで作業に取り掛かり、1988年5月に会員制のクラブとしてようやくオープン。

<Music Institute>は決して華やかな場所ではありませんでしたが、スター・プレイヤーを持っていました。金曜日の夜は「Next Generation」というイベント名で、「できるだけ若く、できるだけ早く、できるだけアグレッシブに」をテーマに、DJはデリック・メイ、ケヴィン・サンダーソン、D-Wynn(ディー・ウィン)、時にはホアン・アトキンスとMike Huckaby(マイク・ハッカビー)がメイの代わりにプレイしたこともありました。

<Music Institute>がテクノ・クラブとして考えられているのは、世界で初めてテクノ・サウンド専用のプラットフォームを提供したからでしたが、実際にはテクノばかりではありません。土曜日の夜に開催していた「Back To Basics」は、シェ・ダミエとアルトン・ミラーが担当し、ラリー・レバンやフランキー・ナックルズの官能的で広がりのあるDJプレイをモデルにしたパーティーでした。

ケヴィン・サンダーソンのインナー・シティは金曜と土曜の音楽的な架け橋となっていましたが、ミラーとダミエは「Big Fun」よりもFirst Choice(ファースト・チョイス)や、Sharon Redd(シャロン・レッド)などのヴォーカルを多用したディスコ・レコードをプレイする傾向がありました。

「私たちは、様々な人々が集まってくる、ニューヨークやシカゴのパーティーのような精神を与えてくれる何かを作りたかったのです。当時のデトロイトはまだ黒人が多かったので、郊外から白人の子供たちをも遊びに来てくれたのは驚きでした。」

真剣に音楽、ダンスと向き合っていた<Music Institute>はシカゴのクラブと同じような感覚を生み出すことに成功していました。

しかし、ビジネスの面ではうまくいっていませんでした。「毎週満員だったけど、最初の一年はほとんどタダでやっていた。」とメイが話すように、お金のことで口論になることが増え、ダミエはクラブが閉店する4ヶ月前の1989年11月に脱退し、その後すぐにシカゴに移りました。

「結局のところ、お金を払うことができなかったんだ。だから閉店したんだ。」

ベイカーいわく、彼らは “ダンス・パーティー・キッズ” であり、加速する思春期を経験した黒人の若者たちが、欲望と想像力から理想的な空間を形成していただけで、ビジネスとして自分たちで運営するには経験値が不足していたのです。

オープンから1年4ヶ月後の1989年11月24日、<Music Institute>は閉店し、メイは808 Stateの「Pacific State」で最後の夜を締めくくりました。

Jeff mills

Jeff Mills(ジェフ・ミルズ)は、Underground Resistance(アンダーグランド・レジスタンス)の創設メンバーであり、のちにミニマルテクノの開祖として知られることになりますが、そのキャリアの始まりはラジオのヒップホップDJとしてでした。

Jeff Millsは1980年代前半から、毎晩ラジオ局WDRQでのプレイ中にビートジャグリングやスクラッチなどのDJトリックを披露し、そのDJとしての技術的な能力により、”The Wizard”という名で知られるようになります。ラジオ局ではWDRQで2年働き、その後、WJLBでも8年DJを務めました。

誰一人として過去に聴いたことがないようなミルズのDJスキルとその素早さは、リスナーの心を完全に掴んでいました。彼はエレクトリファイン・モジョが唯一プレイしなかったヒップホップをかけ、そこにファンクやディスコをプレイし、次々と曲を切り替えるそのミックスは常識を覆すほどの素速さでした。

ジェフ・ミルズは1963年6月18日にデトロイトで生まれ、音楽好きの母親と、4人の姉妹とミュージシャンの兄がいて、いつも音楽が鳴っている環境で育ちました。

デトロイトに住んでいたことも大きな影響があったようです。他の一般的な子供たちよりも遥かに多くの時間をラジオに費やしていたというミルズはElectrifying Mojoの番組に巡りあい、そこで新しい音楽の情報を得ていました。他にも、ストリートから若いDJを呼び込んで最初にミックスショーを行っていたWLVSというラジオ局からは、ニューヨークで起きていたことや、イビサで起きていたことなど、当時の最先端の音楽を聴くことが出来ました。

10歳も歳が離れた兄がDJだったこともあり、ミルズは14歳のときには兄に連れられてデトロイトのあらゆるクラブに足を運んでいました。

高校時代にはドラムを演奏し、学校のコンサートバンド、ステージバンド、マーチングバンドの全てで第一奏者を任されるほどでした。奨学金を得て大学に進むつもりでしたが、奨学金は他の生徒に渡されることになり、それがきっかけでドラムから離れ、DJ活動に力を入れていくことに。

19歳の時にターンテーブルを手に入れて、最初の1〜2年は家で練習ばかり。当時のデトロイトにはディスコ・レーベルや、スタジオや製造会社があり、実際にディスコ・レコードが作られていました。ミルズの兄がDJをやっていたため、その頃から多くの人を知っていて、「俺には弟がいるんだけど、DJを目指してるから助けてあげてくれないか?」とミルズをみんなに紹介してくれました。

そのため、大きなスタジオに行ってレコーディングの様子を見学し、ミックスのレイアウトやステレオの分離の仕方、アウトボードの後ろにあるエフェクトの配線の仕方などを早くから学ぶことが出来ました。

最初のDJのギグもミルズの兄の紹介がきっかけで、当時のミルズはヒップホップのテクニックは知っていましたが、DJの理論は知りませんでした。それを教えてくれたのが、ミルズの兄が紹介してくれた年上のDJたちでした。

毎週火曜日に<Lady>というクラブで、群衆の扱い方を学ぶために特定の時間帯にプレイさせてくれました。クラブに入るには若すぎたので裏口からこっそり入って、終わったらまた裏口から出ていました。そこで本当の意味でのDJのやり方を学ぶことが出来、評判が上がると共にパーティーも増えて、自分のレジデンシーをするようになった後、ラジオの世界に入りました。

まもなくジェフ・ミルズは、ラジオ局の意向により、匿名でのDJプレイをすることになりましたが、番組名が「The Wizard」だったため、いつしかミルズ自身が “The Wizard” と呼ばれるようになりました。

The Wizardは番組中はラジオDJにありがちなお喋りのいっさいせず、喋ることよりも限られた時間内で、なるべく多くのレコードをプレイするDJでした。当時デトロイトのラジオでミックスしていたDJのほとんどはハウスDJでしたが、ミルズが主にプレイしていたのはヒップホップ系で、ニューウェーブやインダストリアルと言われていたものも混ぜていました。

The Wizard – WJLB Mixshow Detroit – 1988

ミルズはヒップホップのテクニックを積極的に取り入れて、そのやり方でハウスやテクノをプレイしたら、自分のスタイルになると考えていました。シカゴからの影響も受けていたミルズは、頻繁にシカゴに住んでいた姉の家に遊びに行って、ラジオ局WBMXでHot Mix 5のミックスを録音したり、レコードを買いに行っていました。

ミルズは当時を次のように述べています。

「僕は一人で、ラジオ局のサウンド・ライブラリーに完全にアクセス出来たし、ストリートにある新しい曲を買いに行くためのお金ももらえた。シカゴとトロントを旅して、見つけたものは全部買って、すぐに演奏していたよ。だから、若い人がラジオを聴いていて、マドンナからKlein&M.B.Oまで日常の番組の中で聴けたら、本当に興奮してしまうのは想像できるよね。そうしたら、毎晩3時間プレイすることになった。週末は5時間だった。夢のようだったよ。大変だったけどね。」

ミルズはすぐに責任感を持つようになり、ラジオのゴールデンタイムに何を流すべきか、番組作りのことを考えるようになります。ラジオ局の競争が激しくなってきて、レコードを持っているだけでは十分ではないと判断したミルズは、機材を買ってラジオ局に持ち込んで、一日の早い時間帯に音楽を作ることにしました。Bossのドラムマシンを買ってきて、その上にレコードを重ねたり、ヤマハのRX15を買って、それに少し手を加えるなどして、他の局が持っていないような別バージョンのミックスを作るうちに、MIDIプログラミングも学んでいきました。

プログラミングでは、高校時代のドラマーとしての経験が助けになり、ドラムをどう扱えば良いのか、ただ叩くのではなく、演奏を通じていかに自分を表現するかについて知っていたので、パーカッションの何をどこで使うのがベストなのかという知識をかなり豊富に備えていました。非常に複雑なルーディメントなどを演奏することができたので、それをプログラミングに活かし、ドラムで楽曲の基盤を生み出す方法、レイヤーを生み出す方法、リズムを中心にして前面に押し出す方法などに活かされてました。

ラジオでのミルズの評判は知れ渡り、フライヤーにThe Wizardと記されていたら、デトロイトのあらゆるエリアから人がその場所に集まるぐらいみんな夢中になっていました。ミルズはどこにでもいるようなヒップホップのDJではなく、「The Wizardに影響を受けていないというDJがいたらそいつは嘘をついているに違いない」と言われるほどの存在になりました。

Mike Banks

80年代後半になるとジェフ・ミルズはラジオ局の女性からAnthony “Asrock” Srock(アンソニー・”アスロック”・スロック)を紹介され、Final Cutというインダストリアルテクノグループを結成し、世界的なクラブヒット「Take Me Away」で成功を収めました。

ミルズはラジオ局の女性からシュロックに次いで、もう一人の男を紹介されました。男はミルズよりも二歳年上で、ストリート・レースで鍛え抜かれた鋼のような肉体を持っていました。それはファンクバンドParliament / Funkadelicのツアーにも参加経験があるPファンクのスタジオミュージシャンだったMike Banks(マイク・バンクス)でした。

ミルズはFinal Cutのアルバム「Deep Into the Cut」の制作中に、アルバムを作るのに必要なタイプのキーボードが足りなかったため、編集やリミックスなどのスタジオワークをしたことがあり、キーボードをたくさん持っていたバンクスからキーボードを借りたことをきっかけに、お互いに連絡を取り合うようになりました。

若き日のバンクスはストリートレーサーとして何度も修羅場を経験していました。直線でのスピードを競い合うという非合法のカーレースは、人種を問わずデトロイトで生きるタフな労働者階級の中から自発的に生まれたものでした。ルールはただひとつ、お互いに金を賭け、負けたら賭け金を勝者に支払うことでした。

深夜の公道を使ったこのレースは、少なくとも2,000ドル、大きなものでは10,000ドルから25,000ドルが賭けられました。勝てば1年間生活が出来るほどの賞金でしたが、負ければすべてを失うハイリスク、ハイリターンの危険なレースでした。レースは毎週末、デトロイト市内の各所で開かれ、賞金を手に入れるために深夜の路上に多くの改造車が集まりました。

鍛え抜かれた肉体を持つバンクスは街のゴロツキたちのボスとして、そして死をも恐れぬ負け知らずのストリート・レーサーとして、 “マッド” マイクの異名を持っていました。

しかし、そんなバンクスの生活にも転機が訪れます。親友であり仕事のパートナーだったクラレンス・ジェームズ・キナードの死でした。ある仕事で、取り立てられた側がふたりの車のあとを追いかけて来たことでカーチェイスになり、追ってきた車が放った銃弾がキナードに命中し、運転するバンクスのすぐ隣で息を引き取りました。このキナードの死がバンクスをハスラー稼業から足を洗わせ、音楽へと向かわせるきっかけとなりました。

やがて、バンクスはブラック・ロックやレゲエを演奏するバンドで活動を始め、その後、パーラメントやファンカデリックとも関係を持つようになります。ジョージ・クリントンやメンバーから機材の使い方やテープ操作などを教えもらい、ツアーに参加させてもらうこともありました。そして、バンクスもモジョのラジオを熱心に聴いていたひとりでした。

バンドマンだったバンクスがアンダーグラウンド・ミュージックに興味を持つきっかけとなったのは、姉が住むシカゴを訪ねたときのことでした。姉に連れられて行ったクラブで、DJがTR-909を使いながらアシッド・ハウスをミックスしているのを初めて聴きました。

デトロイトに戻ったバンクスは、初めて聴いたシカゴでの音楽が頭から離れず、機材を見に楽器店を訪ねました。そこにたまたま出会ったのがホアン・アトキンスでした。

「ホアン・アトキンスに会ってテクノを教えられたんだ。機材を買いに楽器屋に行ったら、そこに彼がいて、しばらく楽器屋でドラムマシンをいじっていると、ホアンがおれに声をかけてきたんだ。おまえ、そのドラムマシンを欲しいなら、おれが持っているやつを売ってやってもいいぜって。彼はそう言うと、俺を彼の家に連れていった。そこでホアンは俺に彼の作っている作品を聴かせてくれたんだ。おれたちはそれから友だちになってね。機材の使い方やレコードの作り方もホアンが教えてくれたんだよ。<Music Institute>を教えてくれたのもホアンだった。」

他の多くの駆け出しのミュージシャンと同じで、バンクスも工事現場や工場など、様々な仕事をしながら生活費を稼がなければなりませんでした。その中で、強制退去を手伝う仕事がテクノサウンドに必要となる機材のいくつかをバンクスに与えることになりました。

バンクスはのちに次のように話しています。

「手に入る物は何でも使ったよ。キーボードに関しては全て質屋で手に入れた。機材の大半は質屋か、Craigslistのような連絡のやりとりで手に入れていたね。強制退去の仕事でも機材が手に入った。機材が必要な時にはパーフェクトだった。だが、俺に言わせれば、機材なんてどうでもいい。機材はそこまで重要じゃない。ハートが肝心なんだ。考えることが必要なんだ。あとは愛と情熱だ。勉強すればできるってもんじゃない。それに、機材や勉強ってのは遅すぎるんだよ。俺のスピードについてこられない。コンピューターでも俺には勝てないのさ。鈍すぎるね。」

Underground Resistance

Final Cutから独立したジェフ・ミルズと連絡を取り始めたバンクスは、Underground Resistance(アンダーグラウンド・レジスタンス)、通称「UR」と呼ばれるプロジェクトを練り始めました。コンセプトについて多く語り、音楽と一緒にいろいろなことを伝えていくために、たくさんのアイデアを考えて話し合い、時期が来るまでそのアイデアを温めていました。

1980年代後半、バンクスはMembers of the House(MOTH)というグループを結成しました。Members of the Houseは、メンバーが自由に入れ替わり、複数のバンドが音楽をリリースするクルーのような存在で、Mike “Agent X” Clark、 Gerald Mitchellなども参加していました。非常にソウルフルなR&Bサウンドをハウスやテクノと組み合わせることもありました。12インチシングルを数枚リリースした後、バンドのメンバーの一人がスタジオミュージシャンになるためにデトロイトを去ることになり、バンクスはいよいよURを立ち上げる時期が来たと判断しました。

Members of the Houseはあらゆる意味でURの基礎を作り上げることになりましたが、サウンド自体は大きく異なっていました。Members of the Houseがハウスを基礎とした多幸感のあるパーティーサウンドだったのに対し、URはハードで好戦的なテクノへと変化していきました。

90年代に入ると、Mike “Agent X” Clarkによる提案で、メンバーを招集して、ニューヨークで開催されていたNew Music Seminarへ出向き、急成長を遂げていたデトロイトサウンドを広めようと考えました。New Music Seminarは、毎年6月にニューヨークで開催される音楽カンファレンス / フェスティバルで、URの立ち上げには絶好の機会でした。招集されたメンバーの中には、Terrence Parker(テレンスパーカー)、やRobert Hood(ロバート・フッド)がいました。

最初の数年、バンクスが作った黒地に白文字のURのロゴTシャツを全員が着ていました。そのTシャツをきっかけに「Underground Resistance」とは一体何なのかと注目を集めると、バンクスはあえて、自分たちの正体を明かさず、URが何なのかを説明をせずに、常に謎めいた存在とすることでニューヨークに大きなインパクトを与えました。

Underground Resistanceはアーティスト名であり、自分たちが運営するレーベルの名前でもありました。バンクスは自分たちが戦うべく相手をプログラマーと呼び、URの究極の目的はプログラマーを粉砕することであると言います。

「レジスタンスとはプログラミングされた心を解放することであり、それを仕組んだプログラマーたちに対する闘争なんだ」と。

バンクスやミルズたちは当時、音楽業界に不満を持っていました。当時、デトロイトではケヴイン・サンダーソンやデリック・メイが有名になっていて、メジャーのレコード会社が彼らに言い寄ってはでたらめな契約をしようとしていた時期で、そういう状況にうんざりしていました。ミルズ自身もFinal Cutで、レーベルとのひどい契約から抜け出すために、自分たちの音楽を文字通り手放さなければならなかったほどで、音楽業界でキャリアを積むなら基本的にすべて自分でやらなければならないと思っていました。バンクスも同じ考えを持っていました。

「ただレコードを出すのではなく、みんなに何かに気が付いて欲しかったんだよ。すべてのことは目的があった。それがURだ。ただ曲だけを作ることはしなかった。曲を作る前にまず話し合って、そのコンセプトを決めてから、ぼくたちは曲作りに入った。」とミルズが話すように、それはレーベルとしての<UR>のリリース形態にも表れていました。普通レーベルのレコード番号は1番から順番に進むものですが、<UR>は番号を飛ばし、飛ばされた番号のレコードが2年後や5年後にリリースされることもありました。

こうしてURはレコード制作からリリース、ディストリビューション、宣伝など、全てを自分たちのみで行い、レコード・リリースだけではなく、彼らのスローガンを印刷したビラを配るなど、数々のメッセージ性の強いスローガンを打ち、インディペンデントでありながら絶大な人気を集めていきました。

幾つものリリースを重ねたURの活動は、1992年にリリースされた「world2world」で一つの節目を迎えようとしていました。

収録されている「Jupiter Jazz」は、テクノのなかにジャズというキーワードを持ち込んだ作品でした。特徴的なオーケストラヒットのようなシンセリフに、ブルースの循環コードのうえを自由に走るアシッドなベースサウンド、ポルタメントのかかったシンセフルート音を使ったマイク・バンクスのソロ・パートは、URのソウルフルネスを高め、デトロイトテクノを新たなステージに引き上げました。

Undergroud Resistance – Jupitar Jazz

そして「world2world」は、ミルズとバンクスふたりのURの最後の作品にもなりました。ミルズはこのEPを最後にURを脱退し、ミニマルテクノを追求していくことになりました。

ミルズはURが行ったヨーロッパツアーを通じて、自分たちの音楽が世界に広がる可能性を感じ、URの支部をニューヨークに作って、もっと世界に出ていくべきだと考えましたが、バンクスはデトロイトでの活動にこだわり、世界に出る必要はないと考えていました。

そうしたタイミングの中で、ニョーヨークのクラブからミルズへレジデントDJの誘いの電話がありました。引越にかかる費用もアパートの家賃もすべてまかなうという条件付きにもかかわらず、わざわざデトロイトに住むミルズを誘ってくれたことに断る理由がありませんでした。

ミルズが脱退したあとのURは、バンクスと流動的なメンバーとのプロジェクトなりました。1993年リリースの「GALAXY 2 GALAXY」に収録された「Hi-Tech Jazz」では、テクノとジャズのさらなる融合が推し進められテクノの歴史に残る名曲となりました。

Underground Resistance – Hi-Tech Jazz

こうしてUnderground Resistanceは、その音楽性と精神性の両面からダンスミュージックの歴史に名を残し、デトロイトのテクノ、ハウスシーンが世界的な存在になる大きな役目を担い、次の世代のデトロイトのDJたちが活躍するための布石となりました。

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