Detroit Techno(デトロイト・テクノ)モーターシティの宇宙 – ハウスミュージックの歴史番外編①

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ミシガン州デトロイト。1903年にヘンリー・フォードが量産型の自動車工場を建設し、「T型フォード」のヒットとともに全米一の自動車工業都市として発展しました。後にゼネラルモーターズとクライスラーが誕生、フォード・モーターと共にビッグ3と称され、デトロイトの街はモーターシティと呼ばれるようになりました。

デトロイトの繁栄を支えた要素の一つとして南部から移住してきた多くのアフリカ系アメリカ人労働者の存在がありました。自動車工場は当初、ヨーロッパ系の白人のみを雇用していましたが、フォードは黒人の雇用を認めて、人種に関係なく平等に報酬を与えた結果、1910年から1920年にかけて、デトロイトは全米で最高の黒人の人口増加率を記録しました。

第二次世界大戦前には市の広域にわたってアフリカ系コミュニティが形成され、黒人が経営する黒人のためのビジネスも発達していました。<Motown Records(モータウン・レコーズ)>の創設者ベリー・ゴーディ・ジュニアもデトロイトという街の魅力に惹かれて、当初はフォードの仕事をあてに南部からやって来た一人でした。

1960年代にモータウン・レコーズが本格的に動き出すと、アフリカ系アメリカ人が所有するインディーズ・レコードレーベルとして、ソウルミュージックやR&Bを中心に据えてソウル・チャートだけでなく、ポップ・チャートでも大成功を収めました。ポピュラー音楽における人種統合で重要な役割を担い、1972年に本社をロサンゼルスに移転するまで、モータウンはデトロイトの象徴的存在となっていました。

1967年7月に、アフリカ系アメリカ人による大規模なデトロイト暴動が市内で発生し、多数の死傷者を出して治安が悪化したことにより、富裕層の白人たちが郊外へと移住し始めました。さらに1970年代頃から品質とコストパフォーマンスに優れた日本車の台頭により、自動車産業が深刻な打撃を受けると、企業が社員を大量解雇したことにより、下請などの関連企業に倒産が相次ぎ、ダウンタウンには浮浪者があふれ、インナーシティ問題と呼ばれる治安悪化が進みました。

1980年には、かつて大型車と広がる夢でにぎわった街は姿を消して他所へと移ってしまい、街にはギャングがはびこり、経済的にも物質的にも飢えた者であふれていましたが、デトロイト・テクノを育てたのは、そんな荒廃した街の中に存在するひと握りの中産階級出身の若者たちでした。

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Electrifying mojo

デトロイト・テクノの夜明け前、パーティに寛容な姿勢を見せたColeman Young市長が在任していた1970年代後半から80年代前半のデトロイトには経済的に苦境にありながらも活気に満ちたパーティー・シーンがあり、デトロイトの伝説的DJであるKen Collier(ケン・コリアー)らによって、ファンクやディスコ、ニューウェーブなどがプレイされていました。

経済的に不安に感じながらも、ダンスしたいという人たちが集まり、次々とダンスステップ、ダンスグループが生まれました。そのころはビデオゲームも何もなかったため、ローラースケートかダンスが全てでした。みんな自分たちが何者なのか、どうなりたいのか分からず、ただ全力でパーティーを楽しもうとしていました。

しかし、デトロイト・テクノを生み出したのは、まだそうしたエキサイティングなパーティ・シーンを知らない下の世代のキッズたちで、彼らはクラブ・カルチャーよりもラジオからの影響を強く受けていました。

デトロイトでテクノの導火線に火を付けたのは、70年代後半から80年代前半にかけて “デトロイトと世界を音楽的混乱から救う “ことを職業としていたラジオDJ、The Electrifying Mojo(エレクトリファイン・モジョ)ことCharles Johnson(チャールズ・ジョンソン)でした。モジョの存在が、その後の音楽的な意味でも、文化的な意味においても、デトロイトの方向性を決定づけました。

アーカンソー州リトルロックで生まれ育ったモジョは空軍に入隊し、フィリピンの基地でラジオDJを始めました。アメリカに戻ると、モジョは数年間ラジオ局で働いた後、ミシガン大学の法学部へ進学し、そこでもラジオDJとして信じられないほど幅広いジャンルとアーティストでオーディエンスを驚かせました。大学卒業後、デトロイトに移り住んだモジョは、地元のラジオ局WGPRでクラッシュ、プリンス、B-52s、マドンナ、クラフトワーク、デペッシュ・モード、ファンカデリック / パーラメントなどを放送し始めました。

元々、WGPRはアーバンコンテンポラリー、R&B、ソウル、ゴスペルや、エスニック番組を中心としたブラックコミュニティ用のラジオ局でしたが、モジョはそのようなフォーマットに縛られず、ヨーロッパの音楽も大胆に取り入れ、ソウル、ファンク、ニューウェーブ、ヒップホップ、ロックなどを自由に組み合わせました。

アメリカのラジオ局は70年代を通じて、レコード会社の広告費によって支配されていたため、ラジオDJはレコード会社の要望にあった曲を放送することが当然でした。しかし、モジョは妥協せずに自分がプレイしたい音楽をプレイするために、時に複数のラジオ局の深夜枠に無報酬で出演し、どうしても予算が必要なときは自ら広告営業に出掛け、自分のコンセプトを話し、相手を納得させようとしました。

そうしたモジョの努力の結果、彼のラジオのリスナーは実に多様な人種で形成されていて、ラジオ局が人種別に厳しく分けられていた時代の中で、これは非常にレアなケースでした。

モジョには他のラジオ局が放送できないような音楽をプレイする能力が備わっていました。決して多弁ではありませんでしたが、人を惹きつけるには十分で、のちにデトロイト・テクノの創始者として広く知られるアーティストであるJuan Atkins(ホアン・アトキンス)、Derrick May(デリック・メイ)、Kevin Saunderson(ケヴィン・サンダーソン)など、当時のデトロイトのDJ、アーティストのみならず、キッズたちの多くがモジョから影響を受けていたと公言しています。

モジョは宇宙船の着陸をイメージした未来的なオープニング曲を好んで使用していましたが、このオープニングのサウンドは初期デトロイトテクノそのものでした。モジョはしばしばデトロイトのダウンタウンに位置する高層ビル群のひとつ、Penebscot Buildingの屋上に降下する設定を採用していました(ジョージ・クリントンとも交流のあったモジョは、この宇宙船のアイディアをパーラメントのアルバム「Mothership Connection」からヒントを得たものと思われます)。

モジョは人種を越えた選曲をすると同時に、無名に近いアーティストの楽曲をプレイすることでも知られており、その楽曲が数ヶ月後や、数年後にブレイクすることも多くありました。例えば、Cybotron(サイボトロン)の「Alleys of Your Mind」と同じく、初のデトロイトテクノ作品と言われている、A Number of Namesの「Sharevari」は、メンバーがデモをモジョに渡し、それをモジョが番組でヘヴィープレイを続けた結果、1981年にリリースされる前に既にこのトラックはフロアヒットとなっていたという話があります。

A Number of Names – Sharevari

このような先見の明があったモジョは、のちに世界的に有名になるデトロイトテクノのシーンとカルチャーの先導者となり、いつでもアンチ・ヴァイオレンスのメッセージを放ち、街で起きるギャング同士の争いに対しても、彼はバカな真似は止めろとメッセージし続けました。

ケヴィン・サンダーソンは「モジョは俺たちの音楽をプレイしてくれると同時に俺たちにインスピレーションを与えてくれる世界各国のアーティストの音楽をプレイしてくれた」と振り返っています。

最終的にThe Electrifying Mojoの番組はデトロイトのみならず、ミシガン州南部、そしてシカゴに、対岸のカナダの一部でも放送されていたと言われています。

The Belleville Three

デトロイト・テクノの誕生に最も深く関わったのは、少年時代の友人であったホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンの3人でした。ミシガン州ベルヴィル出身の3人はのちに「The Belleville Three(ベルヴィル・スリー)」として呼ばれるようになります。

エレクトリファイン・モジョのラジオ番組「ミッドナイト・ファンク・アソシエーション」を聴いて育った少年たちは、ラジオから流れる未来的なサウンドに想いを馳せ、エレクトロ・ファンクの制作から始まり、シカゴから来たディスコ、ハウスミュージックの影響も受けながら、デトロイトテクノへと発展させました。

デリック・メイはかつてデトロイトテクノを「まるででたらめだった。ジョージ・クリントンとクラフトワークがシーケンサーだけを持ってエレベーターの中で閉じ込められたようなものだ」と表現しています。

Juan Atkins

1962年12月9日にデトロイトの西側で生まれたホアン・アトキンスは、子供の頃から音楽に夢中でした。アーティストのコンサートプロモーターを担当していた父親の影響から音楽を聴いて育ち、その早熟な傾倒ぶりを見ていた父親は、ホアンが10歳のときにエレキ・ギターを買い与えました。13歳になる頃にはファンクバンドを組んでいてベースやギターを担当するようになりました。

少年時代、ホアンはどうしようもない不良でしたが、生活のすべてを音楽に向けるほど音楽にのめり込んでいました。最初にファンカデリックに夢中になり、次にエレクトリファイン・モジョのラジオ・ショーで聴いたクラフトワークのサウンドがホアン少年の心に深く突き刺さりました。

モジョからは音楽による啓発を与えられ、何でも可能だと信じること、限界はないという考え方を学びました。

ホアンは次のように回想しています。

「本当に驚いたんだ。未来であり、そして俺がずっと探し求めていたことへの回答でもあった。」

14歳の時に両親の離婚により、デトロイト郊外のベルヴィルにある祖母の家に引っ越すことになりましたが、不良のホアンにとってベルヴィルは退屈な町以外になく、週末や休日はデトロイトに戻り母親の家で過ごしていました。そんな時、弟のアラン・アトキンスを通じて、ベルヴィルの学校に転校して来たデリック・メイとケヴィン・サンダーソンと出会い、すぐに親友となりました。

ホアンは、たくさんのレコードを持っていて、ファンカデリックやジミ・ヘンドリックス、ヒートウェイヴ、ウェザー・リポート、クラフトワークなど、いろいろな音楽を彼らに聴かせていました。

15歳で最初のシンセサイザーであるKorg MS10を購入し、オーバーダビング用のカセットデッキとミキサーを使ってレコーディングを始めました。

ホアンは信じられないくらいにインテリでしたが、全然学校に行かなかったので、単位が足りなくて大学には行けませんでした。代わりにワシュテノー・コミュニティー・カレッジ(WCC)の音楽コースに通うことになり、そこで出会ったRichard Davis( リチャード・デイビス)と「Cybotron(サイボトロン)」というデュオグループを結成したことで、本格的にプロのミュージシャンとしての活動が始まりました。

ホアンがコミュニティ・カレッジで出会ったベトナム戦争の帰還兵だったリチャード・デイビスは、文学的で実験的なエレクトロニック・ミュージックを愛するテクノの辞典みたいな男でした。ホアンもその歳にしては音楽の知識を持っていましたが、デイビスほどエレクトロニクスの知識を持った人物をホアンはそれまで知りませんでした。

デイビスは音楽のみならず、ユダヤの数秘術、SF、アルヴィン・トフラーの未来理論などを基に、自己流の哲学をしっかり持っていました。こうした考えは、電子楽器によって未来の音楽を作り出そうとするホアンの夢とうまく共鳴し、大きな影響を与えました。

ホアンが自分で多重録音したテープをデイビスに渡したところ、気に入られて、一緒にバンドを組むことになりました。こうしてCybotronは1980年に結成され、1981年に最初のシングル「Alleys Of Your Mind」を自分たちのレーベル<Deep Space Records>からリリースしました。

Cybotron – Alleys Of Your Mind

ホアンは、エレクトリファイン・モジョの大ファンだったため、トラックが出来るとラジオでオンエアしてもらいたいと思っていました。当時、デリック・メイがモジョが番組を持っていたラジオ局WGPRの近くに住んでいたため、モジョの行きつけのカフェでモジョが来るのを待って、「なあ、俺のダチが作った音楽があるんだ。聴いてもらえないかな。」と言ってモジョにテープを渡しました。

それから2日後、「Alleys of Your Mind」はモジョの番組でオンエアされたことにより、デトロイトで大ヒットしました。

1982年のシングル「Cosmic Cars」も好調で、サイボトロンはデビュー・アルバム「Enter」を録音しました。1曲目の 「Clear」は、テクノ・ポップとクラブ・ミュージックをバランスよく融合させた、テクノの青写真となる作品でした。

Cybotron – Clear

しかし、この頃からグループの将来に対するビジョンが対立し始めました。リチャード・デイビスはロックンロールに近い音楽的な方向性を追求することを主張し、ホアンは 「Clear 」の流れを継続したいと考えていました。その結果、1985年にホアンはグループを脱退することになりました。

Derrick May

「みんな誤解して いるけど、デトロイトテクノとはホアン・アトキンスが一人でやったことであり、URとJeff Millsがそれを発展させたんだ」デリック・メイはこのように話しています。しかし、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンの存在がなければ、デトロイトテクノは世界的なムーブメントへと成長することはなかったかもしれません。

1977年、メイが13歳のとき、彼は母親と一緒にベルヴィルに引越しました。プロのフットボール選手になるのが夢だったメイは、フットボール部に入部し、そこでホアンの弟アランと仲良くなりました。

アランに誘われて家に遊びに行ったときに初めてホアンと出会いました。ホアンはたくさんのレコードを持っていて、いろいろな音楽を教えてもらいました。

以来、メイは毎日のようにホアンと音楽の起源や意味、作品の裏にある意図などを語り合いました。

やがて、大学生になり、ホアンは音楽学校で音楽を学び、メイは陸上競技の選手として活動していました。そのため、しばらくホアンとは連絡を取っていませんでしたが、18歳の時に学校を退学し、陸上競技を辞めたことにより、再び連絡を取り合うようになりました。

メイはショッピングモールのアルバイトをしながら、Cybotronの手伝いをし、スタジオでホアンがしていることを間近で見ながら、音楽の作り方を学んでいきました。

そんな彼の運命を変えたのは、1983年に母親がシカゴに越したこともあり、たびたびその地を訪れるようになったことです。

メイはシカゴのレコード店<Imports Etc.>に通うようになったことで、Chip E(チップ・イー)やFarley “Jackmaster” Funk(ファーリー・ジャックマスター・ファンク)と知り合い、ホアン・アトキンスのデトロイト・テクノとは別の道、シカゴのアンダーグラウンドミュージックシーンへと繋がりました。

「レコードをミックスしてプログラムしていく、そんなことは誰にだってできるんだ。しかし、Frankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)やRon Hardy(ロン・ハーディー)がやっていたことはそんなものではなかった。それ以上のものだった。おれの人生はこのときに完壁に変わった。シカゴに夢中だったね。

それからおれたちはデトロイトに戻って、自分たちの手でシカゴのようなパーテイをやりたいと考えるようになった。80年代中盤の黒人のキッズはヒップホップに夢中だったけど、おれたちの興味はアンダーグラウンドだった。デトロイトはシカゴと繋がっているんだ。彼らから学ぶことは本当に多く、シカゴとの交流のなかでデトロイトは変化していった。」

メイは、フランキー・ナックルズの〈The Power Plant(パワープラント)〉、ロン・ハーディーの<The Musicbox(ミュージックボックス)>に衝撃を受け、人生のターニング・ポイントだったと振り返っています。

1980年代初め、メイはホアンに自分が体験したシカゴのハウスシーンについて話をしようとしたが、ホアンはシカゴに関しては全く興味がないようでした。

しかし、ホアンはのちにインタビューの中で、「俺はエレクトロから始まったんだ。そのあとでラップが流行ったが、俺にはテンポが遅すぎた。だから、シカゴ産の音楽を聴くようになったのさ。デリック・メイやケヴィン・サンダーソンのような仲間と一緒にその要素を頂戴して、そこにデトロイトの要素を足した。それがテクノ的なサウンドになったのさ」と、彼もまたシカゴに影響を受けていたことを明かしています。

1980年代は、シカゴのハウスミュージックが最も勢いのある時代で、デトロイトはシカゴのハウスシーンの基地局的な存在と見られていました。そのため、1987年ごろにテクノがジャンルとして体系化されるまでは、テクノはデトロイトで作られたハウスミュージックと見られていました。実際にメイも当時は、自身をテクノではなく、ハウスミュージックシーンに属していると考えていました。

ホアンが1985年にCybotronを脱退した後に、自身のレーベル<Metroplex(メトロプレックス)>からModel 500名義で「NoUFO’s」をリリースした際、メイがシカゴでプロモーションしたことにより、エレクトロ・ファンクとシカゴ・ハウスが融合したといえるこの曲はシカゴで15,000枚ものセールスを上げました。

また、Roland TR-909リズムマシンをフランキー・ナックルズにプレゼントし、それがクラブやトラック制作で使用されるなど、メイはデトロイトとシカゴを結びつける重要な役割を果たしていました。

1986年にはデリック・メイ自身のレーベル〈Transmat(トランスマット)〉が誕生します。Rhythm Is Rhythm名義でリリースされた「Nude Photo」「The Dance」「It Is What It Is」「Illusion」「Strings of Life」など、世界的なヒット作を連発し、デトロイト・テクノのスタンダードを作り上げました。

Rhythim Is Rhythim – Nude Photo

Kevin  Saunderson

Kevin Saunderson(ケヴィン・サンダーソン)がニューヨークのブルックリンからベルヴィルに引っ越してきたのは9歳の時でした。

そして、13歳の時にフットボール部の一つ上の先輩であるデリック・メイに出会いました。

ある日、賭けごとに負けたメイがケヴィンに金を払わないことでケンカになり、日頃からメイのバカにしたような態度にも怒っていたケヴィンは、メイの顔を殴り気絶させました。しかし、そのことがきっかけになり2人は仲良くなりました。

ホアン・アトキンスの弟、アーロンも一緒にフットボール部に所属していたため、自然とホアンとも知り合うようになりました。ケヴィンより2歳年上だったホアンは音楽に夢中で、初期のシンセやカセットデッキを持っていたので、色々と見せてもらいました。しかし、その頃のケヴィンはプロのフットボールの選手を目指していたので、音楽よりもスポーツに夢中でした。

音楽的なつながりが起きたのは、高校生の時にメイが家の事情で居候として半年ほどケヴィンの家に住んでいた時でした。ケヴィンはニューヨーク出身だったので、兄の影響からWBLSのTony Humphries(トニー・ハンフリーズ)のラジオ番組を聴いたりしていましたが、メイがラジオでエレクトリファイン・モジョの番組を聴いていたことで、ケヴィンも新しい音楽を開拓し、自分の視野を広げていきました。

ケヴィンが大学生になった頃には、ホアンはCybotronとして地元のヒーローになっていて、メイはそのサポートをするためにシカゴとデトロイトを行き来していました。ケヴィンは、メイからフランキー・ナックルズのことやハウスという新しい音楽のことを頻繁に聞いていました。

そんな折、同じ大学にメイの友達がいて、彼らはTechnicsのターンテーブルとNumarkのミキサー、そして、たくさんのヴァイナルを持っていたので、ターンテーブルを触らせてもらったり、レコードをかけさせてもらったりするようになりました。

フットボール選手であることと同時に、音楽への愛とチャレンジ精神が芽生え始めたケヴィンは、メイがデトロイトに戻ってきたタイミングで、Eddie Fowlkes、Blake Baxter、Juan AtkinsがプレイするDJイベントに行った時に、ついに自分でもやってみたいと思うようになりました。

楽曲のアレンジ、2トラックのテープ編集、レコードのミキシングまでホアンに教えてもらった結果、ケヴィンは音楽の道を選び、ホアンのレーベル<Metroplex>から最初のレコードをリリースすることになりました。

ホアンの<Metroplex>や、メイの<Transmat>がやっていたことを見ているうちに、ケヴィンも自分のレコードをプレスして、いろんなDJに渡して、プレイしてもらえるようになりたいと思い、自分のレーベルを作ることにしました。レーベルの名前は、Kevin Maurice Saundersonの頭文字を取って<KMS>と名付けられました。

「ぼくはデトロイトに越してからもたびたび〈Paradise Garage〉に出向いては、Larry Levan(ラリー・レヴァン)のDJを楽しんでいた。当時のぼくの最高のDJはTony Humphriesだった。」とケヴィンが話すように、<KMS>では、よりハウス色が強いトラックを制作するようになっていきました。

その一つがケヴィンが結成したグループInner City(インナーシティ)での活動です。ヴォーカリストのParis Grey(パリス・グレイ)とのコラボレーションによる1987年のトラック「Big Fun」は、イギリスのダンス・ミュージック界のレジェンドであるNeil Rushton(ニール・ラシュトン)によってコンパイルされたアルバム「Techno! The New Dance Sound Of Detroit」に収録され、イギリスの<Virgin Records>傘下の<10 Records>からリリースされました。

このコンピレーションアルバムはテクノという言葉が世界に認知されるきっかけになり、シングルカットされた「Big Fun」のレコードは最終的に600万枚を越えるセールスとなりました。

Inner City – Big Fun

テクノの一大ムーブメントの始まりの経緯について、デリック・メイは、ホアンがUKのジャーナリストとのインタビューの中で「テクノ」という言葉を使い、ジャーナリストがそれを広めたからだとしています。

「Techno! The New Dance Sound Of Detroit」のコンピのプロモーションに合わせてイギリスの雑誌「ザ・フェイス」は、デトロイトの特集記事を組み、ホアン・アトキンスはその記事のなかで宣言しています。

「ここ5年ぐらいのあいだ、デトロイトのアンダーグラウンドではテクノロジーを使っての実験が繰り広げられていて、それはテクノロジーの使用を拡張しようとするものだった。シーケンサーもシンセサイザーも安くなっていたし、何よりもおれたちは”恋に落ちた”とか”振られた”とかの、古めかしいR&Bにはうんざりしていたんだ。そこでおれたちはプログレッシヴな音楽を創出した。そしておれたちはそれをこう呼んだんだ。- テクノ – 」

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