90年代、NYハウスのゴールデン・エイジに最も「いい音」を生み出していた「Axis Studios(アクシス・スタジオ)」。Francois Kevorkian(フランソワ・ケヴォーキアン)が設立したレコーディング・スタジオであり、その不純物を一切取り除いたようなクリアでピュアでディープな音は「Axis Sound」と呼ばれるほど特異な存在感を放っていました。
また、当時の著名なDJのほぼ全員がアクシス・スタジオを定期的に訪れており、NYのハウスシーンのハブとしても機能していました。
DJやプロデューサーとしてのインタビューは多いものの、ケヴォーキアン本人がアクシス・スタジオについて語ることはほとんどなく、その名を知る人は少ないかもしれません。
しかしThe LoftやParadise Garageの時代から執拗なまでに音質・音響にこだわってきたハウスミュージックの歴史において、またマンハッタンという狭いエリアで発展したNYハウスの黄金期にとって、そしてアンダーグラウンドだったハウスがメジャーなポップス界に進出した過程において、アクシス・スタジオの担った役割は、無視できないものがあります。
今回は、そのアクシス・スタジオの歴史と音を紹介します。
Sounds from Axis Studios
1. Intro(1977)

1977年、NYマンハッタン、ミッドタウン West 54th Streetにオープンした「Studio 54」。Steve Rubell(スティーヴ・ルーベル)と Ian Schrager(イアン・シュレーガー)の2人によってスタートしたこの伝説的ディスコは、アンディ・ウォーホル、ミック・ジャガー、グレイス・ジョーンズなどセレブリティが集うNYカルチャーの象徴でした。
イタリア系建築家Eugene De Rosa(ユージーン・デ・ローサ)によって設計され、1927年に「Gallo Opera House(ギャロ・オペラハウス)」として建てられた17階建てのヴィクトリア調の建物で、カジノやミュージックホールとして使われた後、CBSのテレビスタジオ「Studio 52」として使われており、ディスコ「Stadio 54」は、その1階から3階まで吹き抜けのホールを占めていました。
Inside the Wildest Club of 1970s New York: Studio 54
ディスコができる前から、このビルの上階は賃貸に出されており、その好立地からViacom(ヴァイアコム)、Morgan Stanley(モーガン・スタンレー)、Equinox(イクイノックス)など、有名企業が入居するオフィスビルでした。
またスタジアムやアリーナ級のライブイベントの音響・ライティングを担当する「See-Factor Industry」や、下階にあるオペラシアターのための「Broadway Rehearsal Studios」も同ビルに入居。南側にはレコードのマスタリング+ラッカー盤制作の「Frankford/Wayne Mastering Labs」が入居するビルがあり、このブロック全体がNYのエンターテイメント産業を象徴していました。
このビルの最上階にある小さなペントハウスを1984年から借り始めたのが、Francois Kevorkian(フランソワ・ケヴォーキアン)。
フランスから来たドラマーの彼は、70年代、DJの傍らでドラムを叩くところからディスコデビュー。ディスコ曲のリズムや楽曲構成を把握し、みずからテープエディットした独自ミックスをダブプレートにプレス、DJ時に使うことで、DJ兼Remixerとしての頭角を現わしていきます。
1978年、Prelude Record(プレリュード・レコード)のA&Rに就任。同レーベルのRemixerとしても活躍。1982年からはフリーランスのRemixerとなり、1983年にはParadise GarageでのDJもやめてスタジオRemixワークに集中するようになります。

(Photo taken at the Prelude booth during MIDEM in Cannes, France Jan. 1980)
U2、Mick Jagger(ミック・ジャガー)、Kraftwerk(クラフトワーク)といった人気アーティストからの依頼を受け、業界で最も有名かつ高額なRemixerとして活躍。’78~’87年の間に1500曲以上のRemixを担当しており、自身のスタジオ設立のための資金を貯金していたと思われます。
ケヴォーキアンがエポックメイキングと語る電子音楽機材は、1981年発売のOberheim DMX Machines(オーバーハイムDMX)と、1982年にRoger Linnによって開発されたLinndrum(リン・ドラム)LM-1、この2台のプロ用デジタル・ドラムマシン。
オーバーハイムはRun-D.M.C.やThe Beastie Boysに使われ、80年代のヒップホップを牽引します。またIan Curtis(イアン・カーティス)亡き後のJoy Division改めNew Orderによる「Blue Monday」で使われ、シンセポップ/ユーロディスコの代表曲となります。
リン・ドラムはデジタルサンプルが取り込めるドラムマシンで、そのプログラミングの速さや正確さにより、主にポップスで使われるようになります。
2. Verse(1983)
1983年、Roland、Moog、Oberheimなど各社バラバラだった規格がMIDIとして統一され、ドラムマシンやシンセサイザー、サンプラー、AtariなどのコンピューターもMIDIを基準とした機材をリリースします。
当時、NYには録音スタジオが多数あったものの、そのほとんどがロックに特化したものでした。しかし、ミッドタウン・タイムズスクエア近くに1978年設立された「Unique Recording Studios(ユニーク・レコーディング・スタジオ)」が、‘83年に同スタジオの3部屋めとなるスタジオCを増設。
このスタジオCは世界初のMIDI専用レコーディングルームであり、30台のシンセサイザーを収容、シーケンサーやインターフェースのためのスペースを確保、壁面ジャックにより配線が手軽に行えるようになっており、「MIDI City」と呼ばるようになります。電子音楽の時代を察知していたケヴォーキアンは、よくこの「MIDI City」でRemixワークをしていました。


このユニーク・レコーディングの「MIDI City」をブループリントとして、ケヴォーキアンが設立したのが、Studio 54と同じビルの16階&17階にあった「Axis Studios(アクシス・スタジオ)」です。

1984年、最初に借りたのは、ビル最上階である17階のペントハウスで、オーバーハイムDMXとリン・ドラムLM-1を設置。当初はケヴォーキアンのプライヴェートスタジオで、そこから2~3年は自分のRemix作業をしながら、機材を買いそろえ、内装を整えていたようです。
プロ用録音スタジオとして、SSL(Solid State Logic)4000G+とAmekのミキシング・コンソール、Studer とMitsubishiの24トラック・レコーダー、現在のプラグインに当たるアウトボードギアと呼ばれていたダイナミック・プロセッサーやイコライザーなど、外付け機材を購入。

SSLのコンソールは総重量が500キロ以上、横幅が3メートル以上ある巨大な物体で、他の機材もあわせると非常に広いスペースが必要でした。
MIDIシーケンスにはMacintoshにてOpcode社のStudio Vision(オプコード・スタジオ・ヴィジョン)を使用。DAW初の商業発売されたソフトで、シンセなどMIDIで作った音とヴォーカルなど録音した音を取り込んで編集できる、当時としては画期的なもの。

最終的には、ペントハウスの下にある16階の3部屋も追加でレントし、4つのスタジオルーム(ペントハウスはケヴォーキアン専用プライヴェートスタジオ)として、1987年、商業的に正式オープン。最大20名のスタッフを抱える総合録音スタジオとして、メジャーアーティストが利用する高品質サウンドの代名詞となります。
以下は初期アクシス・スタジオで制作されたケヴォーキアンのプロデュース作。
3. Pre-chorus(1990)
1990年、Deee-Liteがアルバム『World Clique』にてデビュー。Depeche Mode『Violator』発売。前年からスタジオ・セッションにてアクシスを使っていたこの2組によるコマーシャル・ヒットで、アクシスの名が一気に知れ渡ります。
Deee-Lite – Groove Is In The Heart(1990)
Depeche Mode – Enjoy the Silence(1990)

その後、ポップス界のヒット曲を量産。アクシスは「世界で最も成功したスタジオ」として名を馳せます。以下アクシス・スタジオで録音、Mixされたヒット曲ですが、ケヴォーキアンはプロデュースやMixには直接関係していません。(プロデューサーはPで表記)
特にC+C Music Factory「Everybody Dance Now」はコロンビアよりリリースされ、ビルボードチャートNo.1を獲得したヒット曲。アンダーグラウンドだったハウスが一気にメジャーシーンへと押し上げられ、ポップス界でもハウステイストの曲やハウスRemixが増えるきっかけとなります。
C+C Music Factory – Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now)(1990)
Madonna – Justify My Love(1990)
Mariah Carey – Emotions(1991)
※マライアの「Honey」や「Fantasy」のDef Mix Production Mixは、アクシスから数ブロック先の「Quad Recording Studios」にて録音・ミックス。「Honey」にて一部パーカッションプログラムとMIDIレイヤーをアクシスから提供しています。
Michael Jackson – Dangerous(1991)
※曲の大部分はLAのLarrabeeにて制作されているものの、一部プログラミングとMIDIワークはアクシスにて制作。
Madonna – Erotica(1992)
Bobby Brown – Humpin’ Around(1992)
Mary J. Blige – Real Love(Hiphop Club Mix)(1992)
P: Sean “Puffy” Combs、ラップ部分はBiggie Smalls
Happy Mondays – Stinkin Thinkin(1992)

SWV – Right Here(Human Nature Radio Remix)(1992)
※プロデュースTeddy Riley、ラップ部分はティーンエイジャーだったPharrell Williams
The Neville Brothers – Fly Like An Eagle(12inch Mix)(1992)
Björk – Big Time Sensuality(Fluke Minimix)(1993)
4. Chorus(1991)
メジャーレーベルからリリースされているハウスのシングルやアルバム、またインディーズでもハイクオリティな12inchで、アクシス・スタジオが関係しているものが多数あります。
メインのレコーディングはアクシスではないものが多いものの、メジャークオリティのクラブサウンドの最終調整はアクシスに限る、という共通認識がありました。
アクシスの16階スタジオ(特に一番大きいRoomA)には、 高精度なモニタリング・システム、モニターUrei 813BやAugspurger、BrystonやCrownのアンプが備えられており、同時にYamaha NS-10MやProAc Studio 100といった標準的なモニターも準備。モニター/アンプのスイッチングによって聴き比べることが可能でした。


「NS-10で聴いて良い音なら、どの環境でも良い音で鳴る」というルールに基づき、あらゆる視聴環境を試しながら、SSLコンソールによるトゥィーク(微調整)を行っていたといいます。
メジャーの音とクラブの音、両方を理解していたケヴォーキアンのエンジニアたちが、D.I.Y.の粗削りなトラックから、一般流通に乗せられる洗練された曲へとレベルアップさせていたことが伺えます。
Frankie Knuckles – The Whistle Song (1991)
※アルバム収録の「The Whistle Song」や「Rain Falls」は、Erick KupperとJohn Poppoがアクシスに通って仕上げています。オリジナル12inchはArthur Bakerの「Shakedown Sound Studios」(後にディアンジェロやエリカ・バドゥで有名になるRussell Elevadoが当時アシスタント・エンジニアを担当していたスタジオ)で制作されています。
Clivillés & Cole – A Deeper Love(B2 A Deeper Feeling Mix)(1991)
Lil’ Louis & The World – Club Lonely(1992)
※12インチの段階では違うスタジオですが、アルバム制作時にアクシスを使用
Aly-Us – Follow Me(1992)
Ce Ce Peniston – Finally(1992)
Barbara Tucker – Beautiful People(Radio Edit)(1994)
※ラジオEditと数種のクラブMixはアクシスで仕上げ。
Everything But The Girl – Missing(Todd Terry Club Mix)(1994)
Dangerous Minds – Live In Unity(Deep Zone Mix)(1995)
P: Matthias Heilbronn+Mike Delgado/Down & Dirty MixのみNCP Studio
Boris Dlugosch present Booom! feat. Inaya Day – Keep Pushin‘(1996)

Byron Stingily – Get Up Everybody(1997)
Celeda, Danny Tenaglia – Music Is The Answer(1998)
5. Bridge
当時、ハウスのレコードを出すのに2パターンの方法がありました。
まずは、自前のスタジオや安いスタジオで曲を作り、StrictlyやNervous、Freezeといったインディペンデント・レーベルにミックスダウンしたマスターを持って行くと、すぐにラッカー盤が彫られ、スタンパーからVinylにプレス、2~3日後にはレコード屋さんに並んでいるという「安上がりで爆速」のパターン。
90年代、ハイピッチでリリースされていた大量のハウス12inchは、音がデカく尖っているものが多いのですが、作ったトラックをそのまま出すという、ほとんど自主制作に近い形だったからです。マスタリングはラッカー盤を彫るエンジニアが担当していました。
もうひとつは、デモを自分のスタジオで作っておいて、そのMIDIデータをフロッピーディスクに入れてアクシスやユニークに持って行き、高額料金を払って制作。プロのスタジオエンジニアがノイズを削除しながらSSLでミックスダウンしてマスタリング、アナログのマスターテープに落としてレーベルに渡し、数週間後(メジャーの場合は数か月後)にレコードが発売される「高額で時間のかかる」パターン。もちろんラッカー盤を彫る時に再度マスタリング作業は入りますが、微妙な調整はスタジオ音源の段階で終わっています。
これはお金がかけられるプロジェクトに限っており、非常にクリアでキレイな音に仕上がります。この2パターンの制作方法は、MP3のコンプレッションで聴くとほぼ一緒ですが、12inchで聴くとクオリティに明確な差があり、レコード時代から聴いている人なら、音質の違いを聴き分けられるはずです。
ゲイクラブで爆音でかかっていた自主制作のハウスの12inchが、ラジオやMTVで流れる歌謡曲になるまでには、技術的にアクシスが必要だった、ということです。
何せ、自分のスタジオで作って、ガツガツキンキンした音のままプレスしてインディで出すのに慣れているMasters At Workやトッド・テリーですら、メジャーからRemix依頼が来たら「ケヴォーキアン先輩、助けて!」と言わんばかりに、アクシスに駆け込んでいます。自分自身の安い機材だけでは、民放バージョンが作れませんでした。
フランキーが生前よく「マライア・キャリーが使っていたプロのミュージシャンを、DefMixでも使っていた」と語っていましたが、これはC+C Music FactoryのDavid Cole(デヴィッド・コール)とRobert Clivillé(ロバート・クリヴィレ)が、David Morales(デヴィッド・モラレス)と旧知の友人だったことと、C+Cのふたりがアクシスを自分のスタジオのように使うヘヴィユーザーで、マライアのアルバムやシングルもアクシスで制作していたことから実現しています。
デヴィッド・モラレスは80年代、C+CのふたりとChep Nuñez(チェップ・ヌニェス)とクラブBetter Daysで出会い、意気投合。一緒にDJしたり曲を作ったりしていました。4人で「2 Puerto Ricans, a Blackman and a Dominican」というグループを組み、1987年「Do It Properly」’88年「So Many Ways」といった曲をリリース。


この後、C+Cのふたりが1990年「Everybody Dance Now」で有名になり、マライアの仕事に取り掛かります。
ふたりとマライア本人以外にも、バックコーラスのTrey Lorenz(トレイ・ローレンス)、Cindy Mizelle、Melonie Danielsといったシンガー、John Poppo(ジョン・ポッポ)やDana Jon Chappelle(ダナ・ジョン・シャペル)などマライア組のエンジニアが、毎日アクシスに来てレコーディングしていました。もちろんモラレスも遊びに来て、彼らと仲良くなりました。
その後、C+Cのふたりはモラレスのプロデュース業を積極的に手伝ってくれたので、DefMixでも「Rain Falls」でトレイが歌ったり、マライア組のエンジニアがDefMixの仕事も手掛けるようになったというわけです。
C+Cは全米1位となり、派手な歌謡曲を作るメジャーのプロデューサーのように感じますが、実はモラレスと一緒に遊んでいたDJ友達。ロバートはプエルトリカンで「2 Puerto Ricans」は彼とモラレスのこと。もう一人の「C」のコールが1995年、エイズで亡くなったため、C+Cは消滅してしまいますが、彼が生きていれば、メジャーシーンにおけるハウスの立ち位置は変わっていたかもしれません。
技術面だけではなく、ヒューマンリソースとしても、アンダーグラウンドからメジャーシーンに躍り出た時期のハウスに貢献したのは、アクシスでした。
アクシス・スタジオには、フランキー、モラレス、MAW、トッド・テリー以外に、Larry Levan(ラリー・レヴァン)、富家哲さん、Eric Kupper(エリック・カッパー)、Mike Delgado(マイク・デルガド)、Tony Humphries(トニー・ハンフリーズ)、Danny Krivit(ダニー・クリヴィット)、Joe Claussell(ジョー・クラウゼル)、Kenny Carpenter(ケニー・カーペンター)、Junior Vasquez(ジュニア・ヴァスケス)、五味一彦さん、Hex Hector(ヘックス・ヘクター)、George Morel(ジョージ・モレル)、Danny Tenagria(ダニー・テナグリア)といった面々が来ていました。
当時有名だったNYのハウスDJのほぼ全員が、アクシスに(仕事でなくても)定期的に遊びに来ていたといっていい状態ですが、これは17階ペントハウスのバルコニーがハウスDJたちの交流の場となっていたためです。
ハウスレジェンドをドキュメントしているLenny Fontana(レニー・フォンタナ)のインタビューシリーズによれば、アクシスは「Open Door」ポリシーにより誰でも気軽に遊びに来ることができ、クリエイティブとハングアウトのための「サンクチュアリ」であったと証言されています。
また、アクシス・スタジオが、マスタリング、ラッカー盤の製作、アセテートをプレスする「Frankford/Wayne Mastering Labs」から非常に近かった(同じブロック内)ことも、DJがよく遊びに来る原因のひとつでした。90年代の音のいいNY産ハウスレコードの多くはF/Wでラッカーを彫っています。

アクシス・スタジオは当時、最も高額なスタジオとして知られており、1時間1000ドル、1日貸切で2000ドル以上したので、ハウスDJは使えませんでしたが、ケヴォーキアンは夜間や週末など空いている時に「友達割引」で安く貸していたとのことです。
またメジャーレーベルの予算でスタジオを借りた際、その仕事が早く終わった場合、残りの数時間を自作の低予算作品の制作に当てることもよくあったとのこと。そういったやりくりで、インディペンデントなハウスシーンでも、高額な機材を使ったハイクオリティな音を(こっそりと)つくっていたことは想像に難くありません。

6. Break(1994)
1994年に発売された、The Notorious B.I.G.ことビギーの名作アルバム『Ready to Die』には、アクシス・スタジオでミックスダウンやマスタリング、最終調整されたトラックがいくつかあります。プロデューサーのPuff DaddyことSean Combs(ショーン・コムズ/パフ・ダディ/ディディ/以下パフィ)は、Uptown Records時代からアクシスの常連でした。
The Notorious B.I.G. – Juicy(1994)
リードシングル「Juicy」や「Gimme the Loot」「Machine Gun Funk」はアクシス。アルバム発売後のシングルカット「One More Chance」「Warning」12inch Club Mixもアクシスで制作されました。
1996年の2パック暗殺直後、身の危険を感じたパフィは「The Hitman」と呼ばれたプロダクションチームと共に、カリブ海の島国トリニダード・トバゴにあるスタジオ「Caribbean Sound Basin」へと移動し、多数のトラックを制作。当時ビギーは交通事故で車椅子生活を送っており、NYで療養していました。
ビギーが松葉づえを使って歩けるようになった頃、パフィとヒットマンが帰国。アクシスと、パフィのプライベートスタジオにてビギーがレコーディング、アクシスで最終調整を行い、アルバムを完成。
ビギーがリリックを紙に書かなかったのは有名な話ですが、彼はアクシスのコントロールルームに座り数時間、黙ってトラックを聴き、その後で録音ブースに入りラップしていたとのこと。そしてビギー暗殺の16日後に『Life After Death』(1997)が発売されます。
パフィは『Ready to Die』や『Life After Death』で録音してあったビギーの生前のラップを、アクシスでサルベージし「Young G’s」などに利用、ビギー追悼曲として有名な「I’ll Be Missing You」といった曲もアクシスと自身のD&D Studiosで制作。同年、それらをまとめて自身のアルバム『No Way Out』としてリリースします。
その後もビギーの曲が度々リリースされましたが、生前撮ったテープの様々な未使用部分をアクシスで抽出・加工し、曲として組み立てており、本人が死んでいるのに新曲が出るという状況は、アクシスのSSLエンジニアリングあっての芸当だったといいます。
サルベージ作業を担当したTony Maserati(トニー・マセラティ/フリーランス)やPrince Charles Alexander(プリンス・チャールズ・アレクサンダー/ヒットマン)は「死人を蘇らせる」エンジニアとして有名になり、トニーはビヨンセやレディ・ガガを担当する世界一有名なMixer、プリンスはバークリーの教授になりました。

7. Hook(1995)
ケヴォーキアンは1990年初頭から、DJ活動を再開。1995年、自主レーベル「Wave Music」をスタート。通常はメジャーアーティスト向けに高額使用料をとるSSL 4000 G-Seriesコンソールを、ミックス用でなく楽器のように使用。 Lexicon 480Lのリバーヴなどを用い、ダブの要素を用いた音響的楽曲を制作。

また自らチョイスしたアーティストに、アクシス・スタジオのハイエンド設備を解放し、そこで制作された高品質なトラックをWave Musicからリリース。ハウス、ジャズ、テクノとジャンルを問わず、Wave Musicのレコードは、他とはあきらかに違う、ダビーでスぺイシー、クリアな音質を持っていました。
アクシス・スタジオのチーフエンジニアだったMatthias Heilbronn(マティアス・ハイルブロン)は、フランソワの右腕、アクシスのシークレット・ウエポンと呼ばれたドイツ出身のエンジニア。「II Deep」名義でRemixを担当した楽曲があるほか、自身名義のプロデュース曲、Deep Dishの初期Remix エンジニアリングも手掛けている、アクシス・サウンドのキーパーソンです。

他にもRob Rives(ロブ・リヴァス)、Mike Callaghan(マイク・カラガン)といった腕利きのエンジニアが多数在籍し、ケヴォーキアンの理想とする「アクシス・サウンド」のクオリティをコントロールしていました。
François K. – Hypnodelic(1995)FKEP収録
The Beloved – Three Steps To Heaven(Deep Dish Remix)(1996)
Abstract Truth – Get Another Plan(1996)
Matthias Heilbronn – Do It Right(1997)
Azymuth – Jazz Carnival(Global Communication Space Jazz Mix)(1997)
Kevin Aviance – Din Da Da(1997)
8. Outro(1997)
1997年、ケヴォーキアンは、Danny Krivit(ダニー・クリヴィット)とJoe Claussell(ジョー・クラウゼル)と共に、トライベッカにあるVinylにて日曜朝スタートのパーティ「Body&Soul」を開始。金曜日に、アクシス・スタジオでミックスダウンした楽曲をCDに焼き、日曜にBody & Soulでテストするという日々を送ります。

2001年、アクシス・スタジオは商業利用を停止し16階3フロアのレントをストップ、機材を最小限にして、17階ペントハウスのみでケヴォーキアンのプライベート・スタジオに戻ります。
これはDAWの進化に伴い、巨大で高額なSSLコンソールによるスタジオ作業から、MacintoshでのPro ToolsやLogicでの個人作業「In The Box」へと移行し、プラグインも充実、スタジオ需要が減ったことが原因とみられます。
アクシス退去後の16階には、Gus Garces(ガス・ガルセス)のDouble Platinum Studios(ダブル・プラチナム・スタジオ)が入ることになり、ルームAにあったSSLコンソールはそのスタジオに売却。
ダブル・プラチナムは主にRoc-A-FellaとBad Boyに使われ、Damon DashやBeanie Sigel、The Loxといったヒップホップ勢が訪れるスタジオになります。パフィはビギーとの思い出があるため、自分のスタジオを作ったにも関わらず、元アクシスだったこの場所に度々訪れていたとのこと。2012年オーナーGusの死去後は、下階シアターのリハーサルスタジオになりました。
ケヴォーキアンは2003年から、ミートパッキングにあるクラブCieloにて「Deep Space」をスタート。Traktorを用いたラップトップDJで、「ダブ」をテーマに、ハウス、テクノ、レゲエ、ドラムンベースをプレイ。Cieloはいち早くFunktion-Oneを採用しており、そのダブサウンドを最大限表現できるサブウーファー・システムを備えていました。
2019年、Cieloがクローズ。ケヴォーキアンはTwitchにてDJ Mixプログラム「World of Echo」をローンチ。アクシス・スタジオで所有していたアウトボードギアの膨大なコレクションを駆使し、リアルタイムでダブMixをブロードキャスト。
Twitchのポリシー変更につき、現在はMix Cloud Liveにて放送、アーカイブがYoutubeに上がっています。狭いスぺースでDJしているように見えますが、ここは、今まで紹介してきたオリジナルのアクシス・スタジオ、Studio 54と同じビルの最上階17階にあるペントハウス。
映像には出てきませんが、カメラの反対側にはブロードウェイ・シアター・ディストリクトを見下ろすマンハッタン摩天楼の絶景が広がっています。
現在のセットアップは、メインソフトがTraktor Pro 4、コントローラーTraktor Kontrol D2が2台、Native Instruments Kontrol S4 MK3 、ミキサーがThe Allen & Heath Xone 92(もしくはXone 96)。従来アクシス・スタジオで制作していたマルチトラック・ミキシングを、現代版のポータブルなセットアップで再現する内容となっています。
猫モチーフのアイテムが置いてあったり、猫アニメ動画がインサートされる回がありますが、スタジオには実際にZezé(ゼゼ)という名前のネコちゃんがいて、彼女はアクシスのスタジオマネージャー兼Co-Producer。
Body & Soul以外では、ハウスではないセットが多いフランソワ・ケヴォーキアン。ハウスのビートではなく、ワールド(世界観)やエコー(音響)にフォーカスすると、彼のセットリストは俄然聴きやすくなります。
DJやプロデューサーとしてその名が知られてはいるものの、彼が本来やりたいのはマンキューソやラリー・レヴァンが作ってきた「コミュニティ」の再形成であり、そのサウンドスケープがアクシス・サウンドであることは、膨大な量の過去インタビューから読み解くことができるはずです。
「アクシス」というスタジオ名の由来を、本人が語ったことはありません。一般的には1967年発売のJimi Hendrix(ジミ・ヘンドリクス)のアルバムタイトル『Axis : Bold as Love』から取られたのではないか、と言われています。
「Axis」はラテン語の「Axle(アクセル)」に由来し、Axleは車軸や旋回棒、戦車や荷馬車の車輪を繋ぐ棒(今でいうシャフト)のことを差していました。
古代ギリシャ人たちは、そこから「宇宙を動かしている天空の軸」を想像するようになり、英語のAxisは、回転運動や数学・物理学などの見えない中心軸、いわゆる「コア」や「中心点」「基軸」といった意味で使われています。
90年代、NYとハウス(とヒップホップ)が活気にあふれ、様々なタレントが集い、ダンスミュージックのあらゆるポテンシャルを形にしていた時、その中心にはアクシス・スタジオがありました。
今やその存在を知る人は少なくなりつつありますが、そこから生まれた音を、時々聴いてみるのも良いのではないでしょうか。アクシス・スタジオの歴史を知った後で、古臭い90年代の音が、少し違って聴こえるようになることを願って。





