The Loft(ザ・ロフト)ダンスミュージックの萌芽 – ハウスミュージックの歴史①

ザ・ロフト
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ハウスミュージックはもちろん、ダンスミュージックカルチャーの変遷をたどるうえで、ディスコミュージック、そしてDavid Mancuso(デヴィッド・マンキューソ)のThe Loft(ザ・ロフト)は物語の円盤に針を落とすプロローグとなります。

日本でディスコといえば、DJが曲と曲の間におしゃべりをして、お客さんが「みんなで同じ振り付けを覚えて踊る」というものがイメージされます。

これは映画サタデーナイトフィーバーでの影響を受け大衆向けにアレンジされたもので、後にハウスミュージックへと繋がるアンダーグラウンドな黒人テイストの強いディスコミュージックとは趣が異なるものです。

ディスコはどのようにして発展していったのでしょうか?ザ・ロフトとはいったい何なのでしょうか?

目次

ディスコの起源

ディスコという言葉はフランス語のディスコテークに由来します。ブリオテークからの派生語で、「レコード・ライブラリー」を意味します。

1941年戦時中のパリにオープンした小さなバー「ラ・ディスコテーク」が最初にディスコという概念の発祥と言われています。その頃は戦時中のためバンド演奏が出来ず、お酒を飲みながら、ジャズのレコードが流されていました。


こうしたジャズクラブはNYでも人気になり、続々とオープンしました。時を経て、1960年にはNYにフランス人のオリヴァー・コクランが始めた「ル・クラブ」というディスコがオープンし、本格的にナイトクラブ、そしてDJという概念がNYで拡がり始め、その頃には流れる音楽はリズム&ブルースに変化していました。

1964年になるとTerry Noel(テリー・ノエル)というDJが2つの音楽を混ぜて切り替える「ミックス」を初めて行い、「曲が終わる前に次々と曲を選曲していく」という現在のDJの原型を作り出しました。

ディスコ黎明期

60年代末にはファンク、ソウル、ロックなどと共に、ナイトクラブにDJ、音楽、ダンスというダンスミュージックカルチャーが成熟していき、それに伴い、DJの地位、テクニックも向上し、ただの音楽を流す係から、アートフォームへと変化しました。

Francis Grasso(フランシス・グラッソ)がDJの地位を変えた第一人者で、客のリクエストやポップチャートに従った曲選びではなく、自分の個性を全面に出し、選曲した曲でオーディエンスを熱狂させ、音楽の旅へ連れて行きました。

Salvation II(サルヴェーション2)というクラブの専属DJだったテリー・ノエルが遅刻して時間通りに現れず、代打としてプレイした1968年からフランシス・グラッソのDJとしてのキャリアが始まりました。

フランシス・グラッソ
Francis Grasso

フランシス・グラッソのプレイはそれまでのDJと何が違ったのか?

それまでのDJは1曲ごとに物語が終話していましたが、フランシス・グラッソは点と点をつなぎ、線になり、大きな物語を見せることが出来ました。それはビートマッチングの技術と空気を読みダンスフロアを操る才能に長けていることを示していました。


当時のターンテーブルはThorens(トーレンス)が使われていましたが、現在のTechnics(テクニクス)のようにDJ用に作られた製品ではなくピッチフェーダーも無かったため、ビートマッチングが容易ではなかったことが窺えます。

サルヴェーション2が閉店した後、古い教会の建物を改装したThe Church(チャーチ)というクラブがオープンすることになり、フランシス・グラッソはオーディションに合格しDJをすることになりました。しかし、チャーチはオープン早々にトラブルが発生。性的な内装を施した店内が神を冒涜する行為だと、ニューヨークのローマ・カトリック教会より抗議に合い、店名と内装を変更せざるを得ませんでした。

The Sanctuary(サンクチュアリ)と名付けられ再オープンしたクラブは元々ストレート向けのクラブでした。しかし、マネージャーが店のお金を持ち逃げしたことにより経営の危機に瀕し、前オーナーからゲイの新たなオーナーへと店が売却され、そこから、サンクチュアリはゲイのクラブへと生まれ変わりました。フランシス・グラッソ自体はストレートでしたが、ルックスの良さとDJ技術の高さからカリスマ的な人気を得ていきました。

The Sanctuary 1971 – DJ Francis Grasso

フランシス・グラッソに影響されて始めたDJも多く、フランシス・グラッソに直接DJ技術を教えてもらったのが、Steve D’Aquisto(スティーブ・ダキスト)やMichael Cappello(マイケル・カッペロ)です。

のちにスティーブ・ダキストはDavid Mancuso(デヴィッド・マンキューソ)とThe Loftやレコードプールを運営したり、Arthur Russell(アーサー・ラッセル)とタッグを組み「Loose Joints」としてディスコトラックを製作しました。

マイケル・カッペロはNicky Siano(ニッキー・シアーノ)がDJとして最も影響を受けたという人物で、ディスコ時代の中心的DJの一人となります。

彼らは全員イタリア系アメリカ人ですが、ディスコ初期のDJにイタリア系アメリカ人が多いのは、当時イタリア系マフィアが多くのクラブ経営に関与していたことが一つの理由として考えられています。

David MancusoのThe Loftの始まり

ロフトデコレーション

1970年に2月14日にDavid Mancusoが「Love Saves The Day」というバレンタインパーティーを企画し、サルバドールダリの「溶ける時計」をモチーフにした招待状を配って行われたのがThe Loftの最初のパーティーでした。

そこからパーティーは毎週行われるようになり、The Loftは始まりました。ロフトという呼び名はDavid Mancuso自身が付けたわけではありませんでしたが、パーティーが彼の住居式ロフトで行われていたことから、いつしかロフトと呼ばれるようになりました。

デイビッドマンキューソ
david mancuso

The Loftは孤児だったDavid Mancusoが育った孤児院でのパーティーが潜在的なルーツになっていました。毎週のようにシスターアリシアが開いてくれたパーティーは部屋に飾り付けをして、ジュースやお菓子が配られ、レコードをかけて子どもたちに歌ったり、踊らせたりしていました。

ロフトインビテーション

David Mancusoは招待するゲストを厳選し、インビテーションカードを送り、招待状を持つ者のみが2ドルの寄付金で入場することが出来ました。

ゲストが楽しめるように開放的な空間にミラーボールがつるされ、天井をカラフルな風船でデコレーションされました。さらに料理や生の果物を使ったジュースなども振る舞われて、とても居心地が良いものでした。

招待客は人種、性別、セクシュアリティの壁が取り払われていて、みんながリラックスし、自由と愛を感じることが出来る不思議な一体感を持っていたといわれています。

音楽はロック、ポップ、ファンク、ソウル、ラテン、ジャズなど、David Mancusoが良いと思う曲が選曲され、ミックスはせず、曲の最初から最後までを流していました。一時期はミックスをしていた時代もありましたが、最終的には曲をピュアなまま聞かせたいとの考えに至り、ミックスをする代わりに自作のサウンドFX(特殊効果音)ライブラリーを駆使して、曲間に流すなどを行っていました。

1972年ロフトが無許可でキャバレーを経営している容疑でDavid Mancusoが逮捕されました。実際にはアルコールの販売はなく、完全招待制で一般客の入場はしていないため不起訴となり開放されましたが、この事件を発端に何度も警察当局とトラブルになっていました。

さらに1974年に建物の構造上の欠陥を理由にNY市から立ち退きを命じられ閉店(1975年の10月に移転再オープン)をしたりと、何度か危機がありましたが、その後も長い年月開催され多くのパーティーに影響を与えていくことになります。

The Loftの伝説的サウンドシステム

The Loftのサウンドシステムを担当したのは、サンクチュアリのサウンドシステムも担当したAlex Rosner(アレックス・ロズナー)でした。

アレックス・ロズナー
Alex Rosner
ロージー
Rosie

アレックス・ロズナーは電気工学を学び、防衛のエンジニアをしていましたが、ニューヨーク万国博覧会でステレオサウンドシステムを製作した事をきっかけに、本格的にサウンドエンジニアへと転職し、多くのクラブのサウンドシステムを設計した人物です。

世界初のキュー付きステレオDJミキサー「Rosie(ロージー)」を設計したことも有名で、BozakのDJミキサーの設計に関してもアドバイスをし、その後、ボザックのDJミキサーは業界のスタンダードとなり長く使用されました。

The Loftでは音楽こそが主役でした。David Mancusoのサウンドシステムへのこだわりは並々ならぬもので、その要求にアレックス・ロズナーが知識と経験で答えロフトの音は形成されていきました。

初期のロフトはMcIntosh(マッキントッシュ)製のアンプとAR社製のターンテーブル、そしてKripschorn(クリプシュホーン)のスピーカーが設置されました。

ARターンテーブル
クリシュプホーン
Kripschorn

のちに、David MancusoのアイデアでJBLのツイーターを8つ天井に吊るすように追加され、レコード針には菅野義信氏のハンドメイドで本阿弥光悦からインスピレーションを受け命名されたカートリッジ・ブランド「光悦」が使用されました。

ツイーター
Koetsu
光悦カートリッジ


同時代にニューヨークにはたくさんのクラブがありましたが、The Loftのサウンドシステムは桁違いに良く、以降のサウンドシステムの基準となり、DJ、クラブオーナー、ダンサー、誰もがそのサウンドに魅せられました。

The Loftの影響力

ロフトがクラブシーンに与えた影響力は計り知れないもので、ロフト・ベイビーズと呼ばれた熱狂的ファンとして、Nicky Siano、Larry Levan、Frankie Knuckles、Danny Krivit、Francois K、David Moraresなど、多くのDJがロフトに影響を受けたことを公言しています。

DJ以外にも多くのナイトクラブ関係者が「ニューヨークのアンダーグラウンドシーンを繋ぐ聖域だった」と証言していて、全てはThe Loftから始まったと言えます。

David Mancusoプレイリスト

Manu Dibango – Soul Makossa

The O’Jays – Message In Our Music

Lonnie Liston Smith – Expansions

Don Ray – Standing In The Rain

The Blackbyrds – Walking In Rhythm

Barrabas – Wild Safari

Johnny Hammond – Los Conquistadores chocolates

Chuck Mangione & Quartet – Land of Make Believe

Miroslav Vitous – New York City

The Main Ingredient – Happiness Is Just Around The Bend

George Duke – Brazillian Love Affair

Harold Melvin & The Blue Notes – Wake Up Everybody

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