1970年代前半になると、ケネス・ギャンブルとレオン・ハフの二人、通称「ギャンブル&ハフ(Gamble & Huff)」によって、レコードレーベル<Philadelphia International Records(フィラデルフィア・インターナショナル・レコーズ)>が設立されました。それまでの土着的なファンクとは一線を画す、壮麗なストリングスを前面に打ち出した華麗で柔らかく、そして甘美なサウンドは「フィラデルフィア・ソウル(通称:フィリー・ソウル)」と呼ばれ、またたく間に時代を一世風靡することになります。
稀代の作曲・プロデュースチームであるギャンブル&ハフは、お抱えの最高峰スタジオミュージシャン集団であるMFSBをはじめ、Harold Melvin & The Blue Notes(ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ)、The O’Jays(オージェイズ)、Billy Paul(ビリー・ポール)などのアーティストを次々と手がけ、音楽チャートを席巻する数多くの大成功を収めました。
このフィリー・ソウルの台頭によって、ダンスミュージック・シーンにおけるDJたちの選曲も、それまで主流だった荒々しくアーシーなファンクや生々しいソウルから、徐々に都会的で洗練された艶やかなディスコ・サウンドへと鮮やかな変化を遂げていくことになります。
そんな過渡期のニューヨークにおいて、デヴィッド・マンキューソの<The Loft>が生み出したコミュニティの精神や音響コンセプトに、誰よりも強い衝撃と影響を受けた若き才能が現れます。それが、天才DJであるNicky Siano(ニッキー・シアーノ)でした。彼はみずから<The Gallery(ザ・ギャラリー)>という伝説的なクラブを立ち上げ、誰も真似できなかった数々の革新的なアイデアを武器に、1970年代のクラブシーンの最前線を猛烈なスピードでリードしていくことになるのです。
Nicky Siano

当時まだ高校生だったニッキー・シアーノに、ニューヨークで産声を上げたばかりの鮮烈なナイトクラブ・ネットワークの存在を教えたのは、実の兄であるジョー・シアーノの元恋人、デイル・ゾートスという人物でした。
彼女に連れられて初めて<The Loft>の敷居を跨いだニッキーは、そこでデヴィッド・マンキューソの唯一無二のプレイを文字通り全身で体感し、言葉にできないほどの衝撃を受けます。この夜の体験こそが、彼がDJの道を志す決定的な引き金となりました。当時のフロアにおいて、デヴィッドは集まるすべての人々から神のように崇拝されており、どこか浮世離れした絶対的な存在でした。デヴィッドは、フロアにいるオーディエンスが今どのような心理的体験の中にいるのかを完全に掌握したうえで選曲を行っていました。ただ単にレコードをターンテーブルに載せるだけの瞬間は一度としてなく、彼が選ぶ1枚1枚のレコードがすべて必然としての意味を持ち、それが折り重なることで卓越したDJプレイが形作られていたのです。
この原体験から、ニッキーは取り憑かれたようにレコードを集め始めます。それからしばらく経つ頃には、膨大なコレクションのアーティスト名、楽曲タイトル、そしてプレスされたレーベル名に至るまで、そのすべてを暗記して淀みなく言えるほどに音楽の知識を深めていきました。
そんな中、当時ニッキーの恋人だったロビン・ロードが、彼の並外れた才能と情熱に気づき、彼のDJキャリアをスタートさせるために奔走し始めます。ロビンはルックスもスタイルも抜群な16歳の少女だったため、当時イタリア系マフィアの一員であり、<Round Table(ラウンド・テーブル)>というクラブのマネージャーを務めていたフレディという男に気に入られていました。その関係性を活かしてロビンが巧みに交渉を進めた結果、1972年、ニッキーはついに人生初となるDJのプロとしての仕事を手に入れます。その時の報酬は、1晩あたり20ドルでした。ロビンとはその後ほどなくして恋人関係を解消することになりますが、二人の絆が切れることはなく、その後も心強い大切な仲間として行動を共にし続けました。
プロのDJとして活動を始めてからも、ニッキーは自身のインスピレーションの源泉である<The Loft>へ熱心に通い詰めていました。しかしある日、ロフトのパーティー会場内でドラッグを密売していたことが、主催者であるデヴィッド・マンキューソの知るところとなり、激怒したデヴィッドから非情にも「出入り禁止(出禁)」を言い渡されてしまいます。
崇拝する師の聖域であり、自身の最高の遊び場でもあった空間を完全に失ってしまったニッキー。しかし、絶望に暮れるどころか、彼はこの決定的な事件を最大のキッカケとして「ならば、自分たちの手で最高のクラブを作ってやろう」と、新たな野心を胸にみずからの城を計画し始めるのです。
The Gallery誕生

当時、ニューヨークの街にはストレート(異性愛者)がリアルに遊べる「イケてるクラブ」がほとんど存在していませんでした。そこでニッキーは、ストレート向けでありながらも、あの<The Loft>のように純粋に音楽とコミュニティを愛せる極上の空間を作るというアイデアを思いつきます。
さっそく念願のクラブを開くための物件探しを始めると、チェルシーの西22丁目に、月々の家賃385ドルで借りられる手頃な建物の2階スペースを見つけ出しました。そこから緻密なビジネスプランを立て、開業に必要な初期費用を計算してみたところ、予算はおよそ10,000ドルから12,000ドルほどになることが判明します。しかし、この時ニッキーはまだ17歳の若者であり、そんな大金は持っていませんでした。そこで彼は、実の兄であるジョーに「自分たちのクラブを作りたいんだ」と熱を込めて相談します。
すると幸運なことに、ベトナム戦争で負傷した際の多額の保険金が支給され、手元にまとまった資金を持っていたジョーの友人を紹介してもらえることになりました。この友人がニッキーの情熱に動かされ、兄のジョーと共に、合計16,000ドルという目標を大きく上回る資金を投資してくれたのです。
こうして誕生へと動き出した<The Gallery(ザ・ギャラリー)>は、音響や精神の面で<The Loft>から計り知れないほど大きな影響を受けていましたが、内装のデザインに関するアプローチはマンキューソとは全く異なっていました。ニッキーは、クラブを「自分の家のようにくつろげる、リビングルームのような場所」にすべきだとは考えていなかったのです。
彼はよりシアトリカル(演劇的)で刺激的な空間を目指し、メインのダンス用フロアを他のエリアから完全に独立して設計しました。そのダンスフロアの照明がすべて落とされると、完全な暗闇の中で巨大なタペストリーだけが鮮やかに浮かび上がって輝くという、ドラマチックな仕掛けを施したのです。さらに、フロアを移動するごとに全く異なる心理的体験をさせるため、エリアごとに異なった雰囲気を演出。あるスペースは赤、青、白の原色でエネルギッシュに塗り分け、また別のスペースはグレーや黒でソリッドかつシックに塗り潰しました。そして、それぞれのスペースの空気感に合わせて、照明のライティングやサウンドシステムのチューニングまでもエリアごとに大胆に変えるという、極めて先進的な空間造りを行い、オーディエンスを迎える準備を整えていきました。

クラブの顔となるエントランスの入場管理は、ニッキーの心強い相棒であるロビンが徹底して統括していました。ここでも<The Loft>と同じ「完全招待制」が導入され、事前に配布された招待状を持たない一見客(いちげんきゃく)は、どれほど大金を積んでも中へ入ることはできませんでした。そして厳重なチェックを抜けた一歩先では、やはりロフトの哲学を踏襲し、冷たいソフトドリンクやスナック類がすべて無料でゲストに提供されていました。
こうして1973年2月、満を持して<The Gallery(ザ・ギャラリー)>はグランドオープンを果たします。オープニング期間こそ話題性から多くの人々が詰めかけて賑わいを見せたものの、ブームが落ち着くと客足は徐々に遠のき、一時は深刻な経営難の影が忍び寄っていました。しかしそんな折、ニッキーの運命を180度変える、思いがけない千載一遇のチャンスが巡ってきます。
なんと、あのデヴィッド・マンキューソが「<The Loft>を夏の間だけ長期閉店(夏休み)にする」と言い出したのです。この好機をニッキーが見逃すはずはありませんでした。彼はすぐさま、ロフトの休業期間に狙いを定めた「2度目のオープニングパーティー」を急遽企画・ぶち上げます。
この戦略が完璧に見事的中しました。週末に踊る聖域を失い、飢えたダンスフリークたちが週末の夜に500人以上もギャラリーへと一斉に押し寄せたのです。この夜を境界線として動員は爆発。以降、<The Gallery>は名実ともにニューヨークでナンバーワンの熱狂を誇る最重要クラブへと一気に駆け上がっていくことになります。
のちにニッキーは、この転機を振り返り「デヴィッドが俺たちに、最高のチャンスをあえて投げ合ってくれたんだと思う」と深い敬意を込めて語っています。実際に、<The Loft>が夏休みに入る直前の最後のパーティーでは、お決まりの伝説的なエピソードが残されています。フロアの常連客たちがデヴィッド・マンキューソを取り囲み、「頼むから店を休まないでくれよ! これから俺たちは、週末どこでダンスをすればいいんだよ?」と涙ながらに懇願した際、デヴィッドはたまたま足元の床に落ちていた<The Gallery>の2度目のオープニングチラシをスッと拾い上げ、「ここに行けばいいじゃないか」と微笑みながら客たちに手渡したそうです。
やがて約束の夏が終わり、秋を迎えると、デヴィッド・マンキューソは宣言通り<The Loft>を再オープンさせました。神聖なフロアには、以前と全く変わらず熱狂的なオーディエンスたちが戻ってきます。これによって、一時は「ギャラリーのお客がまた吸い取られて減ってしまうのではないか」という懸念もありましたが、結果としては驚くほど何の影響もありませんでした。ニューヨークのアンダーグラウンド・シーンのキャパシティそのものが大きく底上げされたことにより、双方のパーティーは客を奪い合うことなく美しく共存し、お互いの存在と哲学を深く尊重し合う、幸福な黄金時代が築かれていったのです。

<The Gallery(ザ・ギャラリー)>の客層は、当初ニッキーが狙っていたストレートが約40%、そして感度の高いゲイが約60%という絶妙な比率に落ち着いたと言われています。当時の社会的な分断を飛び越え、あらゆるセクシュアリティが渾然一体となったそのダンスフロアは、毎週6時間もの間、ただひたすらに踊り狂い、汗を流し続ける熱狂的なクラウドで文字通り埋め尽くされていました。
そんなフロアの視線の先に立つニッキー・シアーノのDJプレイは、師であるマンキューソの静的なストーリーテリングとは対照的に、極めてエネルギッシュで、激しく、エモーショナルなものでした。
彼はとにかく「目の前のダンサーたちをどれだけ楽しませ、極限まで狂わせるか」を第一に考えていました。フロアの熱量を最高潮(ピーク)の状態へと導き、それを可能な限り長くキープするため、通常のDJが3〜4枚のレコードでビルドアップしていくところを、ニッキーはあえて10枚ものレコードを緻密に積み重ねてじわじわと、かつ確実に爆発的なピークへと持っていくという圧倒的な展開力を見せつけました。さらに、目まぐるしく変化する速いテンポの楽曲と、じっくり聴かせる遅いテンポの楽曲を大胆に織り交ぜ、フロアの感情を激しくアップダウンさせることで、踊る人々をクレイジーなトランス状態へと陥らせていたのです。
この唯一無二のプレイスタイルを築くにあたり、ニッキーは先述のマイケル・カッペロをはじめ、デイビッド・ロドリゲス(David Rodriguez)、リッチー・カクゾー(Richie Kaczor)といった、当時のアンダーグラウンドを支えた凄腕DJたちから絶大な影響を受けたと公言しています。
そして、そんなニッキー・シアーノがみずからの「テーマソング」として、ギャラリーの夜に幾度となくヘビープレイした運命の1曲があります。それこそが、先述のギャンブル&ハフ率いるMFSBが1973年に発表した不朽の名作、『Love Is The Message(愛はメッセージ)』でした。
艶やかなストリングス、躍動するベースライン、そして圧倒的な多幸感に満ちたこのフィリー・ソウルの傑作は、ニッキーのDJ人生そのものを象徴する楽曲となり、後年に彼がリリースする公式MIX CDやドキュメンタリーDVDのタイトルにも冠されるなど、彼の紡ぐ物語の節目には常にこの曲の美しいメロディが鳴り響いていました。
MFSB – Love Is the Message
<The Gallery>では、当時まだ主流ではなかったピッチ可変式のターンテーブルを導入したことで、ビートを合わせたミックスが可能になりました。さらに、レコードの2枚使いや、3台のターンテーブルを同時に駆使したプレイなど、ニッキー・シアーノによる革新的なアイデアはフロアで圧倒的な支持を集め、彼のカリスマ的な人気を決定づけました。
また、店内でLoleatta Holloway(ロリータ・ハロウェイ)やGrace Jones(グレイス・ジョーンズ)がライブを行ったことでも有名です。1977年1月にロリータ・ハロウェイのデビューアルバム『Loleatta』がリリースされると、その1ヶ月後に彼女はギャラリーのステージへ出演しました。
彼女はステージに上がると、ニッキーがプレイしていたCerrone(セローン)の「Love In C Minor」に合わせてアドリブで歌い始め、フロアは凄まじい熱狂に包まれました。結果としてアルバムの全曲を歌い上げ、プロモーションとして大成功を収めた『Loleatta』はその後大ヒットを記録。彼女はディスコクイーンとしての階段を昇っていくことになります。
<The Gallery>は一度移転した後もしばらくは繁盛しており、その栄光は長く続くかと思われました。しかし、店が多忙を極めるにつれて、ニッキーはドラッグに深く依存し、問題を抱えるようになっていきます。この時代の多くのDJがそうであったように、彼もドラッグの罠に囚われてしまいました。
店が忙しくなり、受けるプレッシャーが大きくなるにつれて彼はドラッグへの依存を深め、次第に自分自身をコントロールできなくなっていきました。DJとしての圧倒的な求心力には陰りが見え始め、フロアやスタッフとの間にもトラブルが多発するようになります。この崩壊していく天才の姿を見かね、ギャラリーの最大の理解者であり出資者でもあった実の兄、ジョー・シアーノが苦渋の決断を下します。
「これ以上、彼をこの場所にいさせてはいけない」
兄の張り裂けるような経営判断により、1977年、ダンスミュージックの最前線を走リ続けた<The Gallery>はその短い歴史に幕を閉じることとなりました。
しかし、ニューヨークのクラウドは彼らを見捨ててはいませんでした。ギャラリーが最後を迎えるその夜、別れを告げにやってきたオーディエンスの数は、なんと1,800人。溢れんばかりの愛と、一時代の終わりを惜しむ熱気の中で、ニッキー・シアーノと<The Gallery>は、ダンスミュージックの歴史に消えない熱い足跡を残して伝説となったのです。
Larry LevanとFrankie Knuckles


ニューヨーク界隈で様々なクラブに出入りしていたLarry Levan(ラリー・レヴァン)とFrankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)が<The Gallery>に通い始めたのは、店にファッション関係や流行に敏感でヒップなお客さんが集まるようになった頃でした。
まだDJとしてのキャリアも始まっていなかった2人は、ギャラリーに通い詰めるうちに店の手伝いを始めることになります。風船を膨らませて店内に飾り付けたり、無料提供する軽食やソフトドリンクを作ったりしながら、その合間を縫って、ニッキーがどのようにDJプレイを行い、機材やサウンドシステムを使いこなしているのかを熱心に勉強していました。特にラリーは、ニッキーと非常に仲が良かったと言われています。
ラリーとフランキーにとって、<The Gallery>は自身のDJ人生に計り知れないほど大きな影響を与えてもらった場所でした。この経験を経た2人はのちに、ラリーがニューヨークの<Paradise Garage(パラダイス・ガラージ)>、フランキーがシカゴの<The Warehouse(ウェアハウス)>という伝説的なクラブのレジデントDJをそれぞれ務め、ハウスミュージックの歴史にその名を深く刻んでいくことになります。
The Galleryのサウンドシステム
<The Gallery>のサウンドシステムは、<The Loft>を立ち上げて以来ニューヨークのサウンド・スペシャリストとしての地位を確立していたAlex Rosner(アレックス・ロズナー)がエンジニアを務めました。サウンドシステムの構築には基本的なセットアップだけでも5,800ドルがかかりましたが、ギャラリーにとっては最高のサウンドシステムを手に入れることが何よりも重要でした。
アレックス・ロズナーは、ロフトと比べて部屋のサイズが大きかったことから、クリプシュホーンのスピーカーは合わないと判断。オープン当初は3発のAltec Lansing(アルテック・ランシング)のスピーカーを壁に埋め込みました。その後、初めて店に利益が出たタイミングで、ダンスフロアを壁で取り囲むようにスピーカーをもう1発追加し、その四隅に配置する形へとアップグレードしました。
機材面では、3台のターンテーブルにBozak(ボザック)のミキサーを組み合わせ、さらに高域(HI)・中域(MID)・低域(LOW)の音域をボリュームで個別に調整可能なクロスオーバーを導入していました。
また、<The Gallery>ではPAスタッフがピンクノイズを使いながら、きめ細かいイコライジング(EQ)でサウンドを整えていました。これはクラブとしてはギャラリーが初めて試みたことです。アレックス・ロズナーからは「そんな調整は必要ない」と言われましたが、ニッキーは「いや、必要だ」と押し切り、結果としてそれが音響面で非常に良い方向へと作用しました。
こうして磨き上げられた<The Gallery>のサウンドは比類なきシステムとなり、当時クラブを訪れた人々からは「音楽が直接語りかけてくる場所だった」と表現されています。
同時代の天才DJたち
Michael Cappello(マイケル・カッペロ)
ニューヨークのクラブ「Limelight」のレジデントDJで、フランシス・グラッソ、スティーブ・ダキストと共に70年代初頭の中心的DJの一人として知られていました。気さくで端正なルックスの人物で、Nicky Sianoが尊敬していたDJとして知られています。
David Rodriguez(デイビッド・ロドリゲス)
NYのDJで、Nicky Sianoの良き理解者でメンター的存在でした。1984年にエイズにより亡くなってしまい、ショックを受けたNicky Sianoは一時DJ活動を中断したほどでした。
Walter Gibbons(ウォルター・ギボンズ)
マンハッタンのクラブ「Galaxy 21」のレジデンスDJ。レコードを2枚使いし、ドラム部分のみを取り出し延々と繰り返すプレイがトレードマークとなっていた。ドラムブレイクの2枚使いといえば、ブロンクスのヒップホップDJ、クールハークが有名ですが、Walter Gibbonsも同時期に同じようなことをしていました。リミキサーとしても天才的な才能を発揮し、いくつもの作品を残しています。
Tee Scott(ティー・スコット)
「Better Days」のレジデントDJ。Paradise GarageにゲストDJとして呼ばれるほどの実力で、数多くのリミックス作品を残したリミキサーとしても有名。駆け出しの頃のFrankie KnucklesにBetter DaysでのレジデントDJのチャンスを与えた人物でもあります。
Richie Kaczor(リッチー・カクゾー)
「Studio 54」のレジデントDJ。一時期、Nicky Sianoが平日でStudio 54でDJをし、週末をリッチー・カクゾーが担当していたこともありました。ディスコシンガー、Gloria Gaynorの曲「I Will Survive」を最初に見出しクラブ・アンセムにしたことで有名です。
The GalleryでのNicky SianoのDJミックス音源
Nicky Siano Live at the Gallery, October 1976
Nicky Sianoプレイリスト
Booker T & the MG’s – Melting Pot
James Brown- Give It Up Or Turn It a Loose
Eddie Kendricks – Keep On Truckin
Harold Melvin & The Bluenotes – The Love I Lost
the pointer sisters – yes we can can
Ultra High Frequency – We’re On The Right Track
Double Exposure – My Love Is Free (Tom Moulton 12″ Mix)
Double Exposure – Ten Per Cent
Ecstasy, Passion & Pain – Touch & Go
Loleatta Holloway – Dreamin’
George McCrae – Rock Your Baby


