

Ron Hardy(ロン・ハーディー)
ハウスミュージックフリークの間で、真の意味でシカゴハウスを構築・発展させたと語られるレジェンド、Ron Hardy。
1958年5月8日イリノイ州シカゴに生まれたRon Hardyは19歳の時にシカゴのゲイクラブ「Den One」でDJとしてのキャリアをスタートさせました。
その後、「Den One」が閉店すると一時的にLAに拠点を移しましたが、兄の死をきっかけにシカゴに戻ると、「The Ritz」でのレジデントに就きました。
1982年Frankie Knucklesが自身のクラブ「The Power Plant」をオープンする為に「Warehouse」を辞めると、オーナーのRobert Williamsはクラブの場所を移転し、新たに名前を変え、「The Music Box」としてオープンさせました。Frankie Knucklesの抜けた穴を埋めるために、後釜としてRon Hardyをレジデントとして招きました。
The Music BoxでのRon Hardyのプレイは大勢の熱狂的なファンを生み出し、幾つもの伝説を作り出しました。ターンテーブル2台とミキサーに加えて、リール式のテープデッキを使用しアンダーグラウンドな黒人音楽をプレイし、可能な限りピッチを速くプレイすることを好みました。それはクラブに来ていたダンサーたちの多くが摂取していたドラッグとの相乗効果を生みフロアを異次元の世界へと連れていきました。
当時のシカゴのクラブシーンではFrankie Knucklesのライバル的な存在としてRon Hardyは見られていました。土曜日のRon HardyのThe Music Boxの人気が凄まじく、Frankie Knucklesに土曜日の営業を諦めさせたほどです。金曜日はFrankie KnucklesのThe Power Plant、土曜日はRon HardyのThe Music Boxというほど人気を二分していたと言います。
自身の名義で多くの作品をリリースしていたFrankie Knucklesに比べて、Ron Hardyはリエディットなどは行なっていましたが、キャリアとして記録に残る自身名義のトラックは、ほとんどリリースしませんでした。ですが、Ron Hardyのフロアでの評価やThe Music Boxでのシカゴハウスの普及に努めた姿勢などは今でも高く評価されています。
1987年にシカゴ市の営業時間に関する新たな条例が可決されると、条例違反によりThe Music Boxは閉店を余儀なくされました。その後もRon Hardyはシカゴでプレイを続けましたが、酷いヘロイン中毒症状により徐々にDJプレイから離れることになり、1992年ヘロインの影響により34歳の若さでこの世を去りました。
作品としてRon Hardyの偉業は残されていませんが、そのプレイスタイルは人々の心の中に伝説として今も深く刻まれています。
Ron Hardyのおすすめ曲
Ron Hardy - Sensation
First Choice - Let No Man Put Asunder (Ron Hardy Re-Edit)

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Isaac Hayes Can't Turn Around ( Ron Hardy's Edit)

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Ron HardyのDJ Mix
Ron Hardy - Live @ Muzic Box, Chicago 1986 (HQ Sound)

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Frankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)が<The Warehouse>を辞め、1982年に変電所だった建物に自分のクラブ<The Power Plant>をオープンしたことにより、<W[…]