“プログレッシブ”という言葉は「進歩的」「進行性の」「漸進的な」などを意味しますが、音楽においてはロックで使用されたのが最初でした。
1960年代後半に誕生したプログレッシブ・ロックは、略して”プログレ”と呼ばれ、主流のロック音楽と区別する為に名付けられ、1970年代前半に全盛期を迎え、1970年代後半にかけて衰退したとされています。
クラシックやジャズ、前衛、実験的なサウンドを取り入れ、既存のロックの音楽制作とは違う別のアプローチを開拓しようと試みたものでした。
ハウスミュージックにおいても同様に、ディスコミュージックを基盤としたシカゴ発祥のハウスミュージックスタイルから脱却するため、1990年代初頭のイギリスのレイブやクラブシーンから新しいアプローチが採用され始め、”プログレッシブ・ハウス”と呼ばれるようになりました。
プログレッシブ・ハウスとは?
プログレッシブ・ハウスは、アメリカで生まれたハウスやテクノの影響を受け、90年代初頭にイギリスのアンダーグラウンド・シーンから登場しました。
80年代から90年代にかけて、UKにはハードコア、UKガラージ、ジャングルなどの派手なレイヴ・サウンドがありましたが、プログレッシブ・ハウスの出現により、UK発のサウンドとして、それ以前のレイヴ・シーンのハードなスタイルに取って代わる主流のエレクトロニック・ミュージックとなりました。
プログレッシブ・ハウスは、ある意味、ハウスとトランスの融合であり、ソウルフルな要素はトーンダウンされ、長いパッドサウンドや、アルペジオ、エレクトリックなリフに、ディレイやリバーブなど空間系エフェクトを使った耳に残るサウンドに置き換えられています。
シカゴハウスがブラックミュージックを基にしたリズム的要素に比重があるのに対し、プログレッシヴ・ハウスではアルペジオやハーモニー、旋律の美しさに比重を置いていて、西洋的でクラシカルな要素を多く持っています。
関連するスタイルとしては、プログレッシブ・トランス、プログレッシブ・テクノ(近年はメロディック・テクノと呼ばれている)などがあります。ジャンルのクロスオーバーにより境界線が曖昧なものになっており、さらに親和性も非常に高いため、「プログレッシブ」という括りの下にまとめられることも多いです。
プログレッシブ・ハウスの始まり
1990年10月にリリースされたLeftfieldの「Not Forgotten」が最初期のプログレッシブ・ハウスだと言われています。
ガラージでもテクノでもピアノハウスでもなかったこの曲は、イギリスのプロデューサーたちに、イギリスらしい独自のサウンドを作ることができるという確信を与え、新しい扉を開きました。
Leftfield – Not Forgotten
また、William OrbitとDickO’Dellによって1990年に設立されたレコードレーベル<Guerilla Records>は、プログレッシブ・ハウス黎明期において極めて重要な存在であったと考えられています。マドンナのプロデュースや、アンビエントアルバムの制作で知られていたWilliam Orbitは、<Guerilla Records>を通じて、React 2 Rhythm、Spooky、Dr.Atomicなどのアーティストと共に、プログレッシブハウスの旗を掲げ始めました。
React 2 Rhythm – Rhythm Addiction
“プログレッシブ・ハウス”という言葉を初めて使用したのは、当時、Mixmag UKの編集者だったDom Phillipsでした。
レイブに足を踏み入れ、初めてこの音楽を聴いたあと、すぐに「Trance Mission 1992」という記事として、Mixmagで取り上げ、「ハードだけど音楽的で、バンギングながらも思慮深く、高揚感があるトランスのようなブリティッシュ・ハウスの新種が誕生した。プログレッシブ・ハウスと呼ぶことにしよう。シンプルで、ファンキーで、ドライブ感があって、イギリスならではのものだ。」と紹介しました。
以降、プログレッシブ・ハウスとして定着したサウンドは、新しく作られたダンスミュージックのジャンルとして盛り上がり、Leftfield、Fluke、BT、Deep Dishなどが楽曲をリリースし、Leftfieldのアルバム「Leftism」はイギリスでチャートトップのヒットを記録し、翌年のマーキュリー音楽賞にもノミネートされました。
その初期に、イングランド北部からスターDJが誕生します。本名Alexander Paul Coe(アレキサンダー・ポール・コー)、ノースウェールズ出身のDJ、Sasha(サシャ)でした。
1988年、Sashaはマンチェスターの伝説的なクラブ<The Hacienda(ハシエンダ)>でエレクトロニック・ダンス・ミュージックに目覚めました。 アシッド・ハウスの荒々しいサウンドと反抗的なアティテュードに惹かれたSashaは毎週<The Hacienda>を訪れました。
Sashaは多くのレコードを購入し、ミックスの仕方を独学で学び始めました。その後、レジデントDJだったJon DaSilva(ジョン・ダシルヴァ)の援助を得て、Sashaは<The Hacienda>でのDJの機会を得て、Jon DaSilvaからキー・ミキシングとビートマッチを学び能力を磨きました。
1990年、Sashaは<Shelley’s Laserdrome>というクラブに移籍すると、プログレッシブ・ハウスをプレイし始め、人気と知名度が高まったため、Mixmagは 「SASHA MANIA – THE FIRST DJ PINUP?」という見出しでSashaを表紙に起用しました。
DJを続けながら、Sashaは自身のダンストラックをいくつかプロデュースするようになり、レコーディング契約を結ぶと同時に、レコーディング・スタジオも立ち上げました。これは、成功したDJの多くがプロデューサーとしてキャリアをスタートさせるのが一般的であったのとは対照的でした。
Sasha & John Digweed
数年間<Shelley’s>でDJをしていたSashaは、クラブやその周辺でギャングの暴力が増加していることを理由にレジデントを辞退しました。彼の評判が高まった結果、Sashaはロンドンとオーストラリアのいくつかのクラブから仕事のオファーを受けましたが、代わりにイギリスのマンスフィールドにあるクラブ<Renaissance>でのDJを引き受けました。
1993年にSashaが<Renaissance>に移って、John Digweed(ジョン・ディグウィード)と出会った時、ダンスミュージックがこれまで見てきた中で最も影響力のあるデュオの一つが誕生した瞬間でした。
John Digweedから<Renaissance>にミックステープが送られてきて、それを聴いたSashaはクラブにJohn Digweedをブッキングするよう提案しました。
やがて、<Renaissance>からJohn DigweedへレジデントDJのオファーがありましたが、最初はSashaとは別々でプレイしていました。しかし、同じクラブの下で、定期的にパフォーマンスを行っていた彼らはすぐに親密になり、セットを重ねて演奏したり、実験をしたり、お互いの技術を磨くようになりました。
当時はまだ誰もバック・トゥ・バックでDJを行っていなかったため、SashaとJohn Digweedがバック・トゥ・バックでDJを行う最初の存在となりました。
彼らの選曲と技術的なミキシング能力を重視したパフォーマンスに満足した<Renaissance>は、1994年に2人の3枚組のミックス・アルバム「Renaissance」を制作依頼しました。トランスの要素も取り入れたこのアルバムはUKコンピレーション・チャートで9位をマークしました。プログレッシブ・ハウス・ファンの間ではバイブルのような存在となり、DJ雑誌などで称賛され、世界中で話題になりました。
「Renaissance」での成功の後、Sashaは「son of god?」というキャッチフレーズで再びMixmagに掲載されましたが、彼はこの褒め言葉に対しては良く思っていなかったようです。
Renaissanceでの成功にもかかわらず、Sasha & John Digweedのシーンのアイコンとしての地位はまだ確立されたものではありませんでしたが、2年後の1996年にコンピレーション・アルバムをリリースしたことで、この状況は変化していきました。
1996年、Sasha & John Digweedは次の作品「Northern Exposure」をリリースしました。プログレッシブ・ハウスの成長と育成にはCDコンピレーションのリリースが不可欠だと考えた彼らは、イングランド北部のクラブで何が起こっているのかを世界に向けて発信したかったのでした。
Sasha & Digweed Northern Exposure Expeditions CD1
彼らの努力の頂点と言っても過言ではないこのアルバムは、シームレスなミックスと折衷的なサウンドで、UKコンピレーションチャートで7位を記録し、6万枚以上のセールスを記録しました。プログレッシブ・ハウスを確立したこのアルバムは、商業的なコンピレーション・ミックスの門戸を開き、すぐにミックスCDが市場に氾濫するようになりました。
Sasha & John Digweedはヨーロッパだけでなく北米でも人気を博しました。ニューヨークのクラブ<Twilo>で月に一度のレジデンシーを行いました。1997年に始まった当初は微妙なスタートでしたが、2001年の終了時にはニューヨークで最も人気のあるクラブナイトの一つに成長し、アメリカのエレクトロニック・ミュージック・シーンにとって重要な場所であることを証明しました。
1999年、John Digweedはプログレッシブ・ハウスをさらに広めるためにレコードレーベル<Bedrock Records>を立ち上げました。 友人のNick Muirと共にBedrockの名でプロデュースを続け 、最初のトラック「For What You Dream Of」は映画「トレインスポッティング」で使用されたことで大ブレイクしました。
プログレッシブ・ハウスの現在
2000年代になると、ダークなプログレッシブ・ハウス・サウンドが登場し始め、高揚感のあるピアノやメジャーコードのブレイクダウンは廃止され、代わりに大量のリバーブとディレイでフィルターをかけた効果音が使用されました。セクションを何分にもわたって伸ばしたり、TR-909のスネアドラムロールの代わりにシンプルなノイズビルドを使用してエネルギーを得ることが多くありました。そのサウンドはダークで不気味なものでしたが、それでも踊らせてくれるものがありました。
この頃、Dave Seaman、Nick Warren、Steve Lawler、Hernán Cattáneo、Danny HowellsなどのDJがプログレッシブシーンで活躍していました。
Chris Scott – Down Inside The Fun
Little Green Men – These Are The Beats
DJ Hell Feat. Billy Ray Martin – A-Je Regrette (Superpitcher Remix)
2005年までに、ダークなプログレッシブ・ハウスはシーンを一巡していました。プログレッシブ・ハウスには新しいアイデアがほとんどない一方、トランス人気が高まり、世界中のオーディエンスを獲得していたこともあり、よりメロディックなジャンルへと移行していくファンもいました。
その後、プログレッシブ・ハウスは、じわじわと人気を高めていたベルリンのミニマル、テックハウスシーンと合流し、M.A.N.D.Y.、Booka Shade、James Holden、Gui Boratto、Minilogue、Stephan Bodzin、Extrawelt、Dominik Eulberg、Agoria、Max Cooper、Marc Romboyなどのアーティストがリリースするようなディープなサウンドへと変化を遂げることになります。
James Holden – A Break In The Clouds
Minilogue – The Leopard
Booka Shade – In White Rooms (Mexico Mix)
さらにテクノ、トランスのプログレッシブ化もあり、現在ではジャンルの境界線は曖昧なものになっています。他ジャンル同様にクロスオーバーが進み、プログレッシブハウスといっても、年代によってかなりサウンドに違いがあることがわかります。
Streets of Gold (feat. Ann Clue) – Boris Brejcha
Dosem – Silent Drop
Eric Prydz – Opus
Progressive Houseの音の傾向
- 西洋的なハーモニーを重視している
- クラシカルなコード進行
- 基本的にマイナーキーで叙情的
- アルペジオ
- 長いブレイクとノイズビルド
- 深めのリバーブとディレイで空間を感じさせる
- 厚みのあるサウンド作り
プログレッシヴ・ハウスのおすすめ
Route 66 – Love Is (All Around Me)
Gat Decor – Passion (Do You Want It Right Now)
Crystal Clear – The Grid
Quivver – Daylight (Dub Mix)
Deep Dish – Say Hello
Deadmau5 – Faxing Berlin
Extrawelt – Soopertrack
EDX – Embrace
Hernan Cattaneo & Soundexile – Altair (Guy J Remix)
Christian Löffler – Refu (Dominik Eulberg Remix)
Guy J – Lamur (Henry Saiz Remix)
Sebastien Leger – Lanarka
Stephan Bodzin – Strand