1990年代にニューヨークやアメリカ東海岸でひとつの頂点を迎えたハウスミュージックは、2000年代の到来とともに、その主戦場を再びヨーロッパへと移行させ、同時に劇的なテクノロジーの進化と融合していくことになります。
この時代、ハウスミュージックの制作環境はドラスティックな変貌を遂げました。それまでの主流であった本物の生楽器の演奏や、実機のサンプラーによる職人技的なサンプリング、アナログのハードウェア・シンセサイザーやアウトボードを中心としたスタジオワークから、PC内のDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)、バーチャル・インストゥルメント(音源ソフトウェア)、そして高精度なプラグイン・エフェクトを中心とした完全にデジタルな「イン・ザ・ボックス(PC内完結)」の制作スタイルへとシフトしたのです。この技術革新により、音楽性も従来の肉厚でソウルフルな質感から、よりエッジの効いた、近未来的でエレクトロニックな方向性へと急速に傾倒していきました。
これに伴い、楽曲の解像度や音響的なアプローチが変化し、プログレッシブ・ハウス、テック・ハウス、エレクトロ・ハウス、ニュー・ディスコといった、ハウスミュージックのさらなる細分化と専門化が加速していきます。その混沌としたシーンの中で、2000年代中期にかけて最も特筆すべき、正式な決定打となったのが、ベルリンを中心としたミニマル・テクノ/ミニマル・ハウスシーンの爆発的な成長でした。
無駄な装飾を徹底的に削ぎ落とし、1つのループや音色の微細な変化(テクスチャー)でフロアをトランス状態へと導く「ミニマル」の美学は、テクノのみならずハウスミュージックをも完全に飲み込んでいきました。ミニマルは当時のダンスミュージックにおける最大の一大潮流(メインストリーム)となり、他のあらゆるサブジャンルの音響設計やビートの組み方にまで計り知れない影響を与えることになります。
かつて東西を隔てていた壁の崩壊後、独自のクラブカルチャーを育んできたベルリンは、このミニマル・ムーブメントの世界的なハブ(中心地)として不動の地位を確立。24時間以上週末中オープンし続けるクラブ環境や、最先端のデジタル・テクノロジーが融合したこの都市には、世界中からアンダーグラウンドを愛するダンスミュージック・ファンや、新たな表現を求めるクリエイター、DJ、アーティストたちが大挙して移住し、街全体が巨大なクリエイティブの実験場と化していったのです。
ベルリン
ドイツでは、古くは1950年代のカールハインツ・シュトックハウゼンによる電子音楽の黎明期から、1970年代のタンジェリン・ドリームやクラフトワークといったシンセサイザー・ミュージックの巨頭たちを通じて、エレクトロニック・ミュージックの強固な土壌が何十年にもわたって形成されていました。この独自の電子音楽的素養がベースにあったからこそ、1980年代後半にアメリカから上陸したデトロイト・テクノやシカゴ・ハウスの衝撃を鋭く吸収し、独自のテクノ・カルチャーへと急速に発展させていくことができたのです。
その発展の裏には、激動の政治的背景も深く関わっていました。1980年代半ば、ソ連の最高指導者ゴルバチョフがペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)という開放的な政策を打ち出したことで、東ベルリンの監視体制にも徐々に変化の兆しが現れます。それまで厳しく統制されていた若者たちの反体制的なエネルギーやパンク、エレクトロニック・カルチャーの受け皿として、東ベルリンの教会などがコンサートや集会の代替会場として機能するようになり、地下で新たなコミュニティが育まれていきました。そしてベルリンの壁崩壊の足音が近づく1989年、のちに伝説となるエレクトロニック・ミュージックの祭典「Love Parade(ラブ・パレード)」が初めて産声を上げることになります。
ラブ・パレードは、毎年7月にドイツで開催され、ダンスミュージック史における世界最大規模の野外レイヴへと成長していくイベントです。当初はベルリンのローカルDJであったDr. Motte(ドクター・モッテ)が、政治的なデモンストレーション(音楽による平和の訴え)としてスタートさせた、わずか150人ほどの小さなストリート・パレードに過ぎませんでした。しかし、壁の崩壊によって解放された都市のエネルギーと共鳴するように参加者は毎年爆発的に増加。巨大なスピーカーを積んだトラック(フロート)がベルリンの主要道路である大通りの広場を埋め尽くし、ピークを迎えた1999年には、国内外から150万人ものクラウドを動員する、文字通り地球上で最も巨大なダンス・フェスティバルへと変貌を遂げたのです。
1990年代を通じて、ドイツのシーンではジャーマン・テクノやジャーマン・トランス、強烈な打撃音のハード・ミニマル、疾走するアシッド・ハウスといったサウンドが爆発的な流行を見せました。この熱潮の中から、Sven Väth(スヴェン・フェイト)、Westbam(ウェストバム)、Paul van Dyk(ポール・ヴァン・ダイク)、Ellen Allien(エレン・エイリアン)、Hardfloor(ハードフロア)、Thomas Schumacher(トーマス・シューマッハー)、Chris Liebing(クリス・リービング)など、シーンを牽引するスターDJやプロデューサーたちが次々と誕生することになります。
ドイツの電子音楽は、21世紀を迎えるとダンスミュージックとモダン・ポップスを完璧に融合させながらグローバル化を推し進め、電子音楽という存在をマニアックなアンダーグラウンド・アートから、世界的な巨大現象へと押し上げる上で決定的な貢献を果たしました。その象徴であったラブ・パレードをはじめ、Winterworld(ウィンターワールド)、MayDay(メイデイ)といった大規模フェスティバルは、従来の屋内レイヴやクラブと並び、カルチャーの最前線に位置する巨大なメガ・イベントへと成長を遂げていったのです。
こうしたドイツ全土のエレクトロニック・ミュージックの隆盛と足をそろえるようにして、ベルリンという都市が世界のダンスミュージック・シーンを強力に牽引し始めるようになります。
1989年の壁の崩壊を経て1991年へと向かう激動の混沌の中で、かつて壁がそびえ立っていた無人地帯には、主のいない廃墟と化した地下壕や巨大な古い工場、隣接する広大な空き地が点在していました。若者たちはこれらの空間を不法に占拠し、テクノやダンスミュージックを爆音で鳴らす違法なゲリラ・パーティーを次々とスタートさせたのです。ベルリンの壁の崩壊は、単なる政治的な革命に留まらず、全く新しい文化的な目覚めの瞬間でもありました。これによりベルリンは瞬く間に世界で最もエッジーなテクノの中心地へと変貌を遂げ、国内外から新進気鋭のDJやアーティスト、自由を渇望する若者たちが大挙して集結し、独自のナイトライフ文化を確固たるものにしていきました。
この創世記の熱量の中で生まれたTekknozid(テクノジード)やUFO(ユーフォー)のような伝説的なアンダーグラウンド・パーティーやクラブこそが、のちに世界的な聖地となるTresor(トレゾア)やE-Werk(エー・ヴェルク)などの名門クラブへと進化を遂げるための直接的な母体となったのです。
当時のベルリンでは、音楽のみならず、デザイン、写真、建築のすべてが有機的に結びついた素晴らしい文化が形成されていましたが、2000年代に入ると、この街の磁力に引き寄せられた多くのクリエイターが世界中からベルリンへと移住し始めました。その最大の呼び水となったのが、他のヨーロッパの主要都市に比べて圧倒的に安かった家賃、そして比較的容易に取得することができたアーティストビザの存在でした。
さらに、この時期に格安航空会社が登場したことが、ベルリンを拠点とするアーティストのワークスタイルに革命をもたらします。それ以前のベルリンは、地理的・歴史的な経緯から空路の便が必ずしも良くなく、ヨーロッパ各地でプレイするDJが国外へツアーに出るためには、フランクフルトやミュンヘンといった大都市のハブ空港を経由せざるを得ず、フライト費用も非常に高額でした。しかし、格安航空会社のフライトが始まると、ヨーロッパ中のクラブ観光客がどこよりも簡単にベルリンへ来ることができるようになり、同時にベルリン在住のアーティストたちも、週末ごとに低コストで簡単に国外に出ることができるようになったのです。
こうしてベルリンは、新時代を担うグローバルなクリエイティブ・コミュニティの中心となり、世界中のダンスミュージック・ファンやアーティストを底なしの引力で引き寄せ続けました。週末のパーティーで遊ぶためにやってきた彼らは、都市が持つ独特の解放感、そして安い家賃と簡単に取得できるアーティストビザが提供する気楽で自由な生活をすっかり気に入り、そのまま居残る人もいました。そして、この新住人たちが集うフロアの空気感から、2000年代のシーンを象徴するミニマルという音楽スタイルが完全に定着していくことになります。
かつてニューヨークが持っていた世界の中心としての役割を完全に引き継いだ現在のベルリンを指し、ニューヨーク・タイムズ紙は「アンダーグラウンド・エレクトロニック・ミュージックの世界的な首都」という最大級の賛辞を贈っています。
Basic ChannelとHardwax

90年代初頭、UR(Underground Resistance)を脱退した直後のJeff Mills(ジェフ・ミルズ)とRobert Hood(ロバート・フッド)をはじめ、Daniel Bell(ダニエル・ベル / DBX)や、Richie Hawtin(リッチー・ホゥティン / Plastikman)らによってアメリカで実験的にリリースされ始めたミニマルテクノは、ダンスミュージックが機能するための「踊れる最小限の要素」だけをストイックに残し、まるで彫刻のごとく不必要な音を徹底的に削ぎ落としていきました。
このミニマルテクノは、90年代の10年間を通じて、強烈な打撃音を持つハードミニマルや、深く空間的な広がりを持つダブテクノ(ミニマルダブ)へと派生し、世界中でその人気を急速に高めていきました。その中で、のちに「世界の首都」となるベルリンのシーンにおいて、このサウンドの遺伝子を決定づける極めて重要な役割を果たしたのが、Basic Channel(ベーシック・チャンネル)と、その背後にあるレコードショップでありシーンの心臓部でもあったHard Wax(ハード・ワックス)でした。
Basic Channel – Octagon
Basic Channel(ベーシック・チャンネル)は、ベルリンにて1993年にMoritz von Oswald(モーリッツ・フォン・オズワルド)とMark Ernestus(マーク・エルネストゥス)の二人によって結成されたテクノユニットであり、同時に同名の伝説的レーベルです。彼らはデトロイト・テクノの催眠的なループに、ジャマイカのレゲエ/ダブが持つ深いエコーやディレイ、地を這うような重低音の処理を実験的に融合させることで、のちにダンスミュージックの一大潮流となるダブテクノ(ミニマルダブ)という全く新しいジャンルを発明・定義しました。
彼らはBasic Channel名義だけでなく、よりソウルフルなレゲエ・ヴォーカルやルーツ・ダブの精神に傾倒したRhythm & Sound(リズム・アンド・サウンド)名義や、よりフロアライクで推進力のある4つ打ちのミニマルを展開したMaurizio(マウリツィオ)名義など、複数のサイドプロジェクトでも数多くの重要作を連発。独自の霞みがかったノイズのテクスチャーと圧倒的な音響美学は、2000年代以降のベルリンにおけるミニマル・シーンの強固な基盤を創り上げ、後世のプロデューサーたちに決定的な影響を与える存在となりました。

Basic Channel(ベーシック・チャンネル)の活動は、1989年にMark Ernestus(マーク・エルネストゥス)によってオープンされた、テクノ、レゲエ、ダブなどを専門的に扱う伝説的なレコードストア<Hard Wax(ハード・ワックス)>を拠点として展開されていました。この<Hard Wax>が入っているベルリンの建物は、単なる店舗に留まらず、彼らのレーベル事務所、さらには世界最高峰の音響・カッティング精度を誇り、数々の名盤を世に送り出すことになるマスタリングスタジオ「Dubplates & Mastering(ダブプレイツ&マスタリング)」としても機能しています。
なお、<Hard Wax>が主催している不定期のクラブイベント(「Wax Treatment」など)において、フロアの重低音を支えている巨大なサウンドシステムは、実は日本の大阪を拠点に活動していたレゲエのサウンドシステム、Killasan Movement(キラサン・ムーヴメント)のものです。かつてKillasan Movementが運営していた大阪のクラブ<Jugglin Link City(ジャグリン・リンク・シティ)>が閉店した際、彼らと深い友人関係にあったMark Ernestusがそのスピーカーやシステム一式を預かることになり、以降ベルリンへ移設して現在に至るまで彼らの手で大切に管理・運用されているという、日本とベルリンのアンダーグラウンドを繋ぐ驚くべき歴史が隠されています。
こうしてベルリンのエレクトロニック・ミュージック業界において最も歴史のあるレコード店の一つとなった<Hard Wax>は、デトロイトをはじめとする世界のテクノコミュニティとベルリンを結ぶ極めて重要なハブの役割を果たし、アンダーグラウンドなテクノシーンが世界規模へと健全に成長していく上で、計り知れないほど大きな貢献を果たしました。
Perlon

1990年代後半を迎えると、ミニマルはそれまでの直線的な反復から、さらに「リズムのマイクロ(微細)な変化」や「音の配置(間)」に焦点を当てた、よりディープで中毒性の高いアプローチへと深化し、ハウスミュージックの持つ特有のスウィング感やグルーヴとも本格的に融合を始めます。
この新しい潮流の決定的な核となったのが、1997年にThomas Franzmann(トーマス・フランツマン / Zip)とMarkus Nikolai(マルクス・ニコライ)、そしてChris Rehberger(クリス・レーベルガー)の3人によってフランクフルトで設立され、のちにベルリンへと拠点を移した伝説的レーベル<Perlon(ペルロン)>でした。
<Perlon>が提示したサウンドは、その後のベルリンのクラブカルチャーを形成する上で決定的な貢献を果たしたエレクトロニック・ミュージック・レーベルの中でも、最も抽象的(アブストラクト)で、強烈なオリジナリティを放つものでした。音の要素を限界まで削ぎ落とし、細切れにされた風変わりなリズムの断片をフロアの空間に散りばめたような彼らの作品は、一聴しただけでは、それまでの伝統的なハウスミュージックとは捉えることができないかもしれません。
しかし、それ以前のミニマルが主にデトロイト直系の、ストイックで冷徹なテクノのアプローチ(4つ打ちの直線的な構造)で制作されていたのに対し、<Perlon>はミニマルの剥き出しの骨組みの中に、ファンキーでオーガニックなハウスのグルーヴや、ユーモアさえ感じさせる予測不能なベースラインを注入したのです。この先鋭的な試みは、テクノとハウスという既存のダンスミュージックの境界線を鮮やかに押し広げ、2000年代以降のミニマル・ハウス/ミニマル・テックハウスという新たな世界標準を決定づけることになりました。
Baby Ford & Zip – Windowshopping
Soulphiction Presents Manmade Science – Lick A Shot
<Perlon>というレーベルの計り知れない成功は、創立者たちの功績もさることながら、そこから作品をリリースしてきた素晴らしいアーティストたちや、古くからの友人たちとの緊密なコラボレーションによって一歩一歩実現されてきました。のちにシーンの絶対的なアイコンとなるRicardo Villalobos(リカルド・ヴィラロボス)も、まさにその最たる一人です。
南米チリに生まれたリカルド・ヴィラロボスは、わずか3歳の頃に政情不安を逃れて家族とともにドイツへと移住しました。1990年代初頭からDJとしてのキャリアを本格的にスタートさせ、1999年からは<Perlon>を主戦場とした活動を開始。のちに同郷のバックグラウンドを持つLuciano(ルチアーノ)と共に、2000年代のミニマル・ハウス/テックハウス・シーンにおける圧倒的なカリスマとして世界を牽引していく存在となります。
彼らを引き合わせた最初のきっかけは、Markus Nikolai(マルクス・ニコライ)がチリでの休暇中に偶然リカルド・ヴィラロボスと出会ったことでした。その直後、フランクフルトにあるレコード・ディストリビューター(流通会社)「Neuton」のオフィスにて、マルクスはリカルドをZip(ジップ)へと紹介します。リカルドが持参していたDATテープ(音源データが録音されたテープ)を彼らのリビングルームで試聴した瞬間、そのあまりにも先鋭的なクオリティに衝撃を受け、すぐさま一緒に音楽を作り、仕事をする関係が始まりました。
<Perlon>の初期の時代は、個々のアーティストが商業的に自分たちの名前を売り出すための安易なプラットフォームというよりも、志を同じくする者たちが流動的にチームを組み、スタジオで夜な夜な音響実験を重ねているような純粋なコミュニティでした。
Hombre Ojo(Benjamin Wild、Markus Nikolai、Ricardo Villalobos)、Narcotic Syntax(James Dean Brown、Zip)、Pantytec(Zip、Sammy Dee)、Pile(Zip、Sammy Dee、Markus Nikolai)、Ric y Martin(Ricardo Villalobos、Martin Schopf)、そしてSense Club(Luciano、Ricardo Villalobos)など、彼らはフロアを煙に巻くようなミステリアスでシュールな別名義を次々と使用して作品を発表。そのため、アナログ盤のジャケットやレーベル面の細かいクレジットを凝視しなければ、一体誰がその中毒的なグルーヴに関わっているのかが判別できないという匿名性も、リスナーの好奇心を大いに刺激しました。
2000年代以降、メインストリームの音楽業界は生き残りをかけてインターネットや配信ビジネスを受け入れることを余儀なくされてきましたが、<Perlon>はそうしたデジタル革命のすべてを無条件に受け入れることは一貫して拒否してきました。
彼らは現在に至るまで作品のデジタル配信(ストリーミングやデータ販売)を一切行っておらず、<Perlon>のシングルを購入するための手段は、今なお「12インチのアナログ・レコード」を手に取ること以外にありません。しかし、主宰のZipは決して「テクノロジーの進化や未来に反対しているわけではない」と明確に主張しています。事実、彼らはPC内での楽曲制作やライブパフォーマンスにおいて、革新的なDAWソフトであるAbleton(エイブルトン)をシーンの誰よりも早い初期段階から導入し、その恩恵を最大限に活用してきた先駆者でもあります。データの販売はしないものの、最先端のデジタル技術を使って、最高峰のアナログ盤をカッティングするという独自の美学がそこには貫かれています。
今日のアンダーグラウンドなミニマル系レーベルにおいて、あえてデジタル配信を行わない「ヴァイナル・オンリー(Vinyl Only)」のリリーススタイルが多く見られることからも、<Perlon>が何年にもわたって貫いてきた一貫性と強固な信念が、ミニマル・シーンの土壌にどれほど深く浸透し、計り知れない影響を与え続けているかがはっきりと分かります。
Horror Inc. – The Vanishing
Matt John – Princess Unknown
Sammy Dee – Purple Hummer
Richie HawtinとM_nus

2000年代初頭から中盤に入ると、ミニマル・ハウスからさらに派生したマイクロ・ハウスやクリック・ハウスと呼ばれるジャンルが大流行します。これらは日常のノイズやエラー音、細かくカットアップされた微細なサンプル音(マイクロ・サンプル)やクリック音をグリッチ的に散りばめ、それらをファンキーかつリズミカルに構築した先鋭的なスタイルでした。
シーンがこうした音響的なアプローチへと傾倒していく中、Richie Hawtin(リッチー・ホウティン)がカナダからベルリンへと完全に移住。自身の主宰するレーベル<M_nus(マイナス)>をプラットフォームとして、それまで局所的な潮流であったミニマルを、世界中の巨大なフェスティバルをも支配するグローバルな一大スタイルへと昇華していくことになります。
リッチー・ホウティンは、アメリカのデトロイトと川を挟んで対岸に位置するカナダ・オンタリオ州のウィンザーで育ちました。10代の頃から国境を越えて熱狂的なデトロイトのクラブへ通い詰めるようになり、自然な流れでDJとしての活動をスタートさせます。
1989年、地元のカナダでレコーディング技術や音楽ビジネス、流通に関する深い知識と経験を持っていたJohn Acquaviva(ジョン・アクアヴィヴァ)と運命的な出会いを果たします。二人は共同でレーベル<Plus 8(プラス・エイト)>を立ち上げ、リッチーはF.U.S.E.名義やPlastikman(プラスティクマン)名義で、初期のインダストリアルなアシッド・テクノから、徐々に過酷なほどストイックなミニマル・テクノをリリース。世界的な大成功を収め、デトロイト・テクノのセカンド・ウェーブを代表する存在となりました。
その後、彼がさらに音の要素を極限まで削ぎ落とすミニマルな表現をどこまでも深く探求していった結果、より幅広いビジネスや異なる音楽性を志向したJohn Acquavivaとは別々の道を歩むことを決意。1998年に自身の完全なイデオロギーを具現化するレーベル<M_nus>を始動させます(本格的なリリース展開は1999年から)。<M_nus>は、徹底的なミニマリズムの探求、クリエイティブかつ建築的な構造美、そして無機質でシンプルでありながらフロアを完全にロックする機能美をコンセプトに掲げた、新時代のレーベルとしてスタートを切りました。
リッチー・ホウティンの最大の特徴は、音楽的なミニマリズムの追求が、常に最先端のデジタル・テクノロジーの導入と完全に同義であった点にあります。彼はPCでの制作やライブに革新をもたらしたAbleton(エイブルトン)、アナログのターンテーブルでPC内の音楽ファイルをコントロールするDVSの先駆けとなったFinal Scratch(ファイナル・スクラッチ / 当時StantonとNative Instrumentsが共同開発)、そしてiPad登場以前に先進的なライブ・コントロールを可能にしたマルチタッチ・コントローラーのLemur(レミュー)など、常にいち早く最新のテクノロジーを自身のシステムへと全移植し、全く新しいDJ/ライブの表現方法を模索し続けました。
その圧倒的な実験精神は、彼のDJミックス作品の歴史にも明確に刻まれています。1999年にリリースされた「Decks, EFX & 909」では、ターンテーブル2台にリアルタイムのエフェクター(Ensoniq DP/4+など)と名機ドラムマシン「TR-909」を完全に同期させ、38曲ものトラックを単に繋ぐだけでなく、リアルタイムにエディット・補強していくという驚異的なスタイルを提示。さらに2001年の「DE9 | Closer to the Edit」では、100曲以上ものミニマル・トラックから特定のループやパーツだけをあらかじめ細切れに抽出し、それをスタジオで完全に分解・再構築(リアレンジ)するという、従来の「DJミックス」の概念を根底から覆す、コラージュ・アートのような表現手法を確立しました。
そして2008年、レーベルの設立10周年を記念したプロジェクト「CONTAKT」において、その美学は一つの極みに達します。リッチーは、Magda(マグダ)、Gaiser(ガイザー)、Heartthrob(ハートスロブ)、Troy Pierce(トロイ・ピアース)、Marc Houle(マーク・ホール)といった<M_nus>生え抜きの精鋭アーティストたち、そして長年視覚エフェクトを統括してきたビジュアル・アーティストのAli M. Demirel(アリ・M・デミレル)らと共に「M_nusクルー」として世界規模のツアーを敢行。ステージ上のアーティスト全員がワイヤレスやネットワークで互いの機材を同期させ、リアルタイムに生成されるミニマルな音響、そしてそれらと1ミリ秒の狂いもなく連動する抽象的な映像、ライティングが一体となった「インタラクティブなショーケース」を提示したのです。
これは、かつて地下倉庫の暗闇で鳴っていたミニマル・テクノを、最先端のデジタル・アートと完全に融合させ、巨大なスタジアムやフェスティバルのオーディエンスをも狂喜させるモダンなエンターテインメントへと完全に塗り替えた、記念碑的な出来事となりました。
タイトに洗練された近未来的なサウンド、一貫したモノトーンの美しいビジュアルイメージ、そして建築のごとく緻密に練り上げられたコンセプト。これらを圧倒的な強度で提示したRichie Hawtin(リッチー・ホウティン)率いるM_nus(マイナス)は、2000年代におけるミニマルの進むべき方向性を完全に決定づけました。彼らのアプローチによって、かつては地下の限られたマニアのためのものだったミニマルが、世界中の巨大フェスティバルを熱狂させるグローバルな一大潮流(メインストリーム)へと席巻していったのです。
このミニマルの圧倒的な爆発は、単に一つのジャンルの流行に留まりませんでした。ディープハウス、テックハウス、プログレッシブハウス、エレクトロハウスなど、当時存在していたあらゆるハウスミュージックのスタイルが、このベルリンを中心とするミニマル・シーンの洗練された音響設計や、無駄を削ぎ落としたタイトなシーケンスの美学を通過することになります。
ベースラインの抜き差し、一音のテクスチャーへのこだわり、そしてクラウドをじわじわとハメていくトランス的な展開の構成力。それまでの伝統的なハウスが持っていたエモーショナルな熱量に、ミニマルがもたらした高い解像度と冷徹な機能美がハイブリッドに融合したことで、ハウスミュージック全体のプロダクション水準は飛躍的に向上し、名実ともに「次のステージ」へと引き上げられたと言えます。
ソフトウェアカンパニー
ベルリンが世界のダンスミュージックの絶対的な中心地となった背景には、この街のクラブカルチャーの盛り上がりだけでなく、同時期に並行して起きた音楽ソフトウェア会社の大躍進による力強い後押しがありました。
2000年代に入り、DAW、バーチャルインストゥルメント、プラグインをはじめとする音楽制作ソフトの業界が飛躍的な成長を遂げると、ドイツにルーツを持つメーカーのソフトウェアが世界市場のシェアを急速に拡大していきました。当時、業界をリードしていたSteinberg(スタインバーグ)のCubaseや、のちにAppleに買収されるEmagic(イーマジック)のLogic、そしてNative InstrumentsやAbletonといったドイツメーカーの先進的なシステムは、世界中のプロデューサーのスタジオへと一気に浸透していったのです。
その中でも、特にNative Instruments(ネイティブ・インストゥルメンツ)とAbleton(エイブルトン)の2社は、本社をベルリンに構えていたことから、地元のクラブシーンの熱気をダイレクトに吸収していました。そのため、ソフトウェアサンプラー、DJソフトウェア、ライブパフォーマンスツールなど、エレクトロニック・ミュージックの制作やDJプレイに特化した革新的なツールの開発、そしてシーンへの取り組みには並々ならぬ情熱が注がれていました。
Native Instrumentsは、今日のデジタルDJのデファクトスタンダードとなるDJソフトウェア「Traktor(トラクター)」を2000年に初めてリリースします。さらに2003年には、Stanton Magnetics(スタントン・マグネティクス)と共同で、タイムコード・スタンプ(特殊な信号)が刻まれた専用のレコード盤やCDを用いることで、PC内のデジタル音源をアナログのターンテーブルで直感的に制御できる画期的なDVS(デジタル・ヴァイナル・システム)「Final Scratch(ファイナル・スクラッチ)」を開発しました。のちにこの革新的な技術が「Traktor」自体に完全に統合・実装されたことで、アナログの操作感を愛する世界中の多くのトップDJやアーティストたちに広く愛用され、DJのプレイスタイルそのものを根本から変えることになったのです。

Richie Hawtin(リッチー・ホウティン)とJohn Acquaviva(ジョン・アクアヴィヴァ)が、この「Final Scratch」の初期開発への強力な援助と、実際の現場における圧倒的なプロモーション(宣伝活動)を行ったことにより、それまで未知の技術であったDVSは世界中のDJコミュニティへ一気に広く認知され、浸透していくことになりました。
一方、同じベルリンで産声を上げたAbleton(エイブルトン)は、従来の「タイムラインに沿って左から右へと音声を並べる」というレコーディング主体の既存のDAWとは全く異なる、ライブパフォーマンスやリアルタイムのDJプレイで使用されることを最優先に設計された革新的なソフトウェア「Ableton Live(エイブルトン・ライブ)」を開発しました。
オーディオのテンポを瞬時に自動同期させる驚異的なワープ機能や、直感的にループを組み替えていくセッションビューといった独自の構造、優れた操作性、そして高い拡張性により、Ableton Liveは2000年代中盤から爆発的に人気を高めていきます。スタジオとステージの境界線を完全になくしたこのソフトは、エレクトロニック・アーティストたちのライブパフォーマンスにおいて瞬く間に必要不可欠な存在となり、数え切れないほどのクリエイターから絶大な支持を集めました。
こうした開発環境の充実に呼応するように、ベルリンにはさらなる音楽ビジネスの主役たちが集結し始めます。世界最大級のダンスミュージック専門の配信プラットフォームであるBeatport(ビートポート)が重要な拠点を構え、アーティストのハブとなるSoundCloud(サウンドクラウド)や、オンライン・マスタリングサービスの先駆者であるLANDR(ランダー)といった企業がベルリンで創業・台頭するなど、最先端の音楽系スタートアップがこの街に次々と集まりました。
クラブカルチャー、クリエイター、ハードウェアやソフトウェアの開発企業、そして配信や流通を担うプラットフォーム。これらすべてが同じ街で密接に結びつき、強烈な相乗効果(シナジー)を生み出したことにより、ベルリンは名実ともに、世界のダンスミュージック業界の未来をコントロールする最も強力な中心地としての影響力を不動のものにしていったのです。
ベルリン発レーベルのプレイリスト
Maya Jane Coles – From the Dark feat.Moggli [Mobilee]
The Poor Knight – Sunset [Cabinet]
Ame – Rej [Innervisions]
H.O.S.H. – Don Arp [Porker Flat]
Andre Crom & Martin Dawson – In The City [Off Recordings]
Ricardo Villalobos – Enfants [Sei Es Drum]
SIS – Nesrib [Cécille Records]


