1988年にコンピレーション・アルバム「Techno! The New Dance Sound of Detroit」が発売され、テクノという新たなフォーマットが世界に知られることになりました。
デトロイト・テクノが世界への扉を開き始めた同じ年に、デトロイトのダウンタウンには一軒のクラブ<The Music Institute(ミュージック・インスティテュート)>がオープンします。シカゴのクラブに影響を受けたChez Damier(シェ・ダミエ)、Alton Miller(アルトン・ミラー)、George Baker(ジョージ・ベイカー)によって設立された<The Music Institute>は、デトロイト・テクノの象徴的なクラブとなりました。それまで散らばっていたデトロイトのダンスミュージック・シーンを“ファミリー”としてまとめ上げ、先導する教育的な側面も持ち合わせていたのです。
ここではアンダーグラウンドなコラボレーションが活発化し、ベルヴィル・スリーが作り出した新たなサウンドに影響を受けた多くのフォロワーを育成。デトロイトのテクノシーンの一大発信地となる役割を果たしていきました。
当時の<The Music Institute>の常連の中には、Carl Craig(カール・クレイグ)、Robert Hood(ロバート・フッド)、Kenny Larkin(ケニー・ラーキン)や、カナダの国境にあるウィンザーから通っていたRichie Hawtin(リッチー・ホウティン)、その弟のMatthew Hawtin(マシュー・ホウティン)、Daniel Bell(ダニエル・ベル)などの姿が見られました。
このクラブについて、カール・クレイグは「デトロイトのクラブの中でパラダイス・ガレージやミュージックボックスに最も近いものだった」と、のちにその偉大さを述べています。
The Music Institute

高校時代の同級生だったジョージ・ベイカーとアルトン・ミラーは、10代の頃からクラブに通うようになり、80年代初頭には、Ken Collier(ケン・コリアー)がDJとしてプレイするデトロイトで最も人気のあったクラブの一つである<L’uomo>の常連でした。
1986年、叔父と叔母の家に住むためにシカゴからデトロイトの郊外にあるイースト・ランシングにシェ・ダミエが引っ越してきます。その直後、ダミエは共通の友人に紹介されてアルトン・ミラーと知り合い、同じ週のうちにジョージ・ベイカー、そしてデリック・メイとも親交を結ぶことになりました。
最初に聴いたDJはFarley “Jackmaster” Funk(ファーリー・ジャックマスター・ファンク)とSteve “Silk” Hurley(スティーブ・シルク・ハーレー)だったというダミエは、14歳の頃から<Warehouse(ウェアハウス)>、<Power Plant(パワープラント)>、<Music Box(ミュージックボックス)>など現地の高名なクラブで踊っていたため、すでにシカゴのシーンで顔が利く存在となっていました。
ダミエ、ベイカー、ミラーの3人は、メイと一緒に定期的にシカゴのクラブへ通い、時にはトロントの<Twilight Zone(トワイライト・ゾーン)>や、ニューヨークの<Paradise Garage(パラダイス・ガレージ)>にも足を伸ばすようになります。
生粋のパーティー・キッズだった彼らは、シカゴのクラブに何度も足を運び、Ron Hardy(ロン・ハーディー)やFrankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)のプレイを実際に目の当たりにしているうちに、「デトロイトにもシカゴのようなアンダーグラウンドなクラブの要素を持ち込もう」と考え始めました。
<Paradise Garage>の常連客はラリー・レヴァンのセットを「ミサ」と呼んでいましたが、ミラーもまた<MusicBox>での体験をスピリチュアルな言葉でこう表現しています。
「あれは息を呑むような、畏敬の念を抱かせるような、インスピレーションを与えてくれるものだった。究極のクラブ体験ができる全てが<MusicBox>にあったんだ。ロン・ハーディーと観客との信頼関係は、まさに信じられないものだったよ」
しかし、当時のデトロイトのクラブシーンに満足していなかった彼らが、これらの経験を地元に持ち込もうとする計画は、極めて大きな挑戦でした。彼らにはお金も経験もなく、さらに当時のデトロイトのダウンタウンはさびれていたからです。1988年当時のデトロイトの殺人率はワシントンD.C.に次いで全米で2番目に高く、市民の間には「ダウンタウンへ出かけること、特に夜間の外出は危険だ」という認識が深く定着していました。
そのため、構想から<Music Institute>をオープンするまでに1年もの歳月を要することになります。1987年には、ウェイン州立大学の近くにある古い建物を改装するのに3ヶ月を費やしたものの、ボイラーシステムの設置に数千ドルもの費用がかかることが判明し、そこでの開局を断念せざるを得なくなりました。その後、ブロードウェイ1315番地にある4階建ての建物に最適なスペースが見つかったため、急ピッチで作業を再開。1988年5月に会員制のクラブとして、ようやく念願のオープンへと漕ぎ着けたのです。
<Music Institute>は決して華やかな場所ではありませんでしたが、確固たるスター・プレイヤーたちを擁していました。金曜日の夜は「Next Generation」というイベント名が冠され、「できるだけ若く、できるだけ早く、できるだけアグレッシブに」をテーマに掲げます。そこではデリック・メイ、ケヴィン・サンダーソン、D-Wynn(ディー・ウィン)がDJを務め、時にはホアン・アトキンスやMike Huckaby(マイク・ハッカビー)がメイの代わりにプレイすることもありました。
この<Music Institute>がのちにテクノ・クラブとして記憶されるようになったのは、世界で初めてテクノ・サウンド専用のプラットフォームを提供したからでしたが、実際の現場はテクノ一色だったわけではありません。土曜日の夜に開催されていた「Back To Basics」はシェ・ダミエとアルトン・ミラーが担当し、ラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズの官能的で広がりのあるDJプレイをモデルにしたパーティーを展開していました。
ケヴィン・サンダーソンのインナー・シティの楽曲は、金曜日と土曜日の音楽的な架け橋となっていましたが、ミラーとダミエは「Big Fun」よりもFirst Choice(ファースト・チョイス)やSharon Redd(シャロン・レッド)といった、ヴォーカルを多用したディスコ・レコードを好んでプレイする傾向にありました。
当時の様子について、彼らはこう振り返っています。 「私たちは、様々な人々が集まってくる、ニューヨークやシカゴのパーティーのような精神を与えてくれる何かを作りたかったのです。当時のデトロイトはまだ黒人が圧倒的に多かったので、郊外から白人の子供たちまでもが遊びに来てくれたのは驚きでした」
音楽やダンスとどこまでも真剣に向き合っていた<Music Institute>は、シカゴのクラブとまったく同じ熱量を持った感覚を生み出すことに成功していました。
しかしその一方で、ビジネスの面は決してうまくいっていませんでした。「毎週満員だったけど、最初の一年はほとんどタダでやっていた」とメイが語るように、やがてお金をめぐる口論が増加していきます。ダミエはクラブが閉店する4ヶ月前の1989年11月に脱退を決め、その後すぐにシカゴへと拠点を移してしまいました。
「結局のところ、お金を払うことができなかったんだ。だから閉店したのさ」
ベイカーが語るように、彼らはどこまでも “ダンス・パーティー・キッズ” でした。加速する思春期を経験した黒人の若者たちが、自身の欲望と想像力から理想的な空間を形成していただけで、ビジネスとして自分たちの手で持続的に運営していくには、あまりにも経験値が不足していたのです。
オープンから1年4ヶ月が経過した1989年11月24日、<Music Institute>はその歴史に幕を閉じました。デリック・メイは、808 Stateの「Pacific State」をプレイし、伝説となった最後の夜を締めくくったのです。
Jeff mills

Jeff Mills(ジェフ・ミルズ)は、Underground Resistance(アンダーグラウンド・レジスタンス)の創設メンバーであり、のちにミニマルテクノの開祖として知られることになりますが、そのキャリアの始まりはラジオのヒップホップDJとしてでした。
Jeff Millsは1980年代前半から、毎晩ラジオ局WDRQでのプレイ中にビートジャグリングやスクラッチなどのDJトリックを披露し、そのDJとしての技術的な能力により、”The Wizard” という名で知られるようになります。ラジオ局ではWDRQで2年働き、その後、WJLBでも8年間DJを務めました。
誰一人として過去に聴いたことがないようなミルズのDJスキルとその素早さは、リスナーの心を完全に掴んでいました。彼はエレクトリファイン・モジョが唯一プレイしなかったヒップホップをかけ、そこにファンクやディスコを織り交ぜながら、次々と曲を切り替えるそのミックスで常識を覆すほどのスピード感を提示していったのです。
ジェフ・ミルズは1963年6月18日にデトロイトで生まれ、音楽好きの母親と4人の姉妹、そしてミュージシャンの兄がおり、常に音楽が鳴り響く環境で育ちました。
デトロイトに住んでいたことも彼に大きな影響を与えたようです。他の一般的な子供たちよりも遥かに多くの時間をラジオに費やしていたというミルズは、Electrifying Mojoの番組に巡りあい、そこで新しい音楽の情報を得ていました。他にも、ストリートから若いDJを呼び込んで最初にミックスショーを行っていたWLVSというラジオ局からは、ニューヨークやイビサで起きていた当時の最先端の音楽を聴くことができました。
10歳も歳が離れた兄がDJだったこともあり、ミルズは14歳の時には兄に連れられてデトロイトのあらゆるクラブに足を運んでいました。
高校時代にはドラムを演奏し、学校のコンサートバンド、ステージバンド、マーチングバンドの全てで第一奏者を任されるほどの実力を持っていました。奨学金を得て大学に進むつもりでしたが、その奨学金が他の生徒に渡されることになり、それがきっかけでドラムから離れ、DJ活動に本格的に力を入れていくことになります。
19歳の時にターンテーブルを手に入れてからの最初の1〜2年は、自宅で練習に没頭する日々を送りました。当時のデトロイトにはディスコ・レーベルやスタジオ、製造会社が存在し、実際にディスコ・レコードが生産されていました。ミルズの兄がDJをやっていたため、その頃から多くの業界関係者と面識があり、「俺には弟がいるんだけど、DJを目指してるから助けてあげてくれないか?」とミルズを周囲に紹介してくれたのです。
そのため、大きなスタジオに行ってレコーディングの様子を見学し、ミックスのレイアウトやステレオの定位の分離、アウトボードの背面にあるエフェクトの配線方法などを早い段階から学ぶことができました。
最初のDJのギグもミルズの兄の紹介がきっかけであり、当時のミルズはヒップホップのテクニックは知っていたものの、DJの構造的な理論までは知りませんでした。それを教えてくれたのが、兄が紹介してくれた年上のDJたちだったのです。
彼らは毎週火曜日に<Lady>というクラブで、群衆の扱い方を学ぶために特定の時間帯にミルズをプレイさせてくれました。当時のミルズはクラブに入るには若すぎたため、裏口からこっそり入店し、出番が終わるとまた裏口から退出していました。そこで本当の意味でのDJのやり方を学ぶことができ、評判が上がると共にパーティーのオファーも増え、自身のレジデンシーを獲得したのちにラジオの世界へと足を踏み入れたのです。
まもなくジェフ・ミルズは、ラジオ局の意向により、匿名でのDJプレイを行うことになりました。しかし、その番組名が「The Wizard」だったため、いつしかミルズ自身が “The Wizard” と呼ばれるようになります。
The Wizardは番組中、ラジオDJにありがちなお喋りをいっさい挟みませんでした。喋ることよりも、限られた時間内でなるべく多くのレコードをプレイすることに命を懸けるDJだったのです。当時デトロイトのラジオでミックスしていたDJのほとんどはハウスDJでしたが、ミルズが主にプレイしていたのは、自身のルーツであるヒップホップ、ファンク、ニュー・ウェイヴ、そして初期のエレクトロニック・ミュージックを凄まじい速度でコラージュしていく、独自のミクスチャー・スタイルでした。
The Wizard – WJLB Mixshow Detroit – 1988
ミルズはヒップホップのテクニックを積極的に取り入れ、そのやり方でハウスやテクノをプレイすれば、それが自身のオリジナル・スタイルになると考えていました。シカゴからの影響も多分に受けていたミルズは、頻繁にシカゴに住んでいた姉の家へと遊びに赴き、現地のラジオ局WBMXでHot Mix 5のミックスをカセットに録音したり、熱心にレコードを買い漁ったりしていました。
ミルズは当時を振り返り、次のように述べています。
「僕は一人で、ラジオ局のサウンド・ライブラリーに完全にアクセス出来たし、ストリートにある新しい曲を買いに行くためのお金ももらえた。シカゴとトロントを旅して、見つけたものは全部買って、すぐに演奏していたよ。だから、若い人がラジオを聴いていて、マドンナからKlein&M.B.Oまで日常の番組の中で聴けたら、本当に興奮してしまうのは想像できるよね。そうしたら、毎晩3時間プレイすることになった。週末は5時間だった。夢のようだったよ。大変だったけどね」
こうした環境のなかで、ミルズはすぐにプロとしての責任感を持つようになり、ラジオのゴールデンタイムに何を流すべきかという、番組作りの大局的な構成を考えるようになります。やがてラジオ局同士の競争が激しくなってくると、ただレコードを所有しているだけでは差別化として十分ではないと判断。自ら機材を購入してラジオ局に持ち込み、一日の早い時間帯からスタジオに籠もって自ら音楽を作ることにしたのです。
Bossのドラムマシンを買ってきてその上にレコードを重ねたり、ヤマハのRX15を購入してそれに少し手を加えたりしながら、他の局が持っていないような独自の別バージョン・ミックスを制作。そのプロセスを通じて、彼はMIDIプログラミングの技術も自然と学んでいきました。
このプログラミングの現場において、高校時代のドラマーとしての経験が大きな武器となります。ドラムという楽器をどう扱えば良いのか、ただ叩くだけではなく、演奏を通じていかに自分を表現するかを熟知していたため、パーカッションのどの要素をどこで使うのがベストなのかという知識を、彼はかなり豊富に備えていたのです。非常に複雑なルーディメント(小太鼓の基礎奏法)などを生で演奏することができたため、その感覚をそのままプログラミングへと応用。ドラムによって楽曲の強固な基盤を生み出す方法や、巧妙なレイヤーを構築する方法、そしてリズムをすべての中心に据えて前面に押し出す手法などに、その才能が遺憾なく活かされていきました。
こうしてラジオを通じて広まったミルズの評判は決定的なものとなり、パーティーのフライヤーに「The Wizard」の名が記されていれば、デトロイトのあらゆるエリアから人々がその現場へと一斉に集まるほど、誰もが彼に夢中になっていました。当時のミルズは、もはやどこにでもいるような普通のヒップホップDJの枠には収まらず、「デトロイトでThe Wizardに影響を受けていないというDJがいたら、そいつは嘘をついているに違いない」とまで周囲に言わしめるほどの伝説的な存在へと登り詰めていったのです。
Mike Banks

1980年代後半になると、ジェフ・ミルズはラジオ局の女性からAnthony “Asrock” Srock(アンソニー・”アスロック”・スロック)を紹介され、インダストリアル・テクノ・グループ「Final Cut(ファイナル・カット)」を結成。世界的なクラブヒットとなった「Take Me Away」で大きな成功を収めました。
ミルズはラジオ局の女性からスロックに次いで、もう一人の男を紹介されます。その男はミルズよりも二歳年上で、ストリート・レースで鍛え抜かれた鋼のような肉体を持っていました。それこそが、のちに伝説のファンクバンドであるParliament / Funkadelic(パーラメント/ファンカデリック)のツアーにも参加経験を持つ、PファンクのスタジオミュージシャンだったMike Banks(マイク・バンクス)だったのです。
ミルズはFinal Cutのアルバム<Deep Into the Cut>の制作中、アルバムを完成させるために必要なタイプのキーボードが足りないという問題に直面していました。当時すでに編集やリミックスなどのスタジオワークをこなしており、キーボードを大量に所有していたバンクスから機材を借りたことをきっかけに、二人は互いに連絡を取り合うようになります。
若き日のバンクスは、ストリートレーサーとして何度も修羅場を経験していました。直線でのスピードを競い合う非合法のカーレースは、人種を問わずデトロイトで生きるタフな労働者階級の中から自発的に生まれたものです。ルールはただひとつ、お互いに金を賭け、負けたらその賭け金を勝者に支払うという極めてシンプルなものでした。
深夜の公道で行われるこのレースには、少なくとも2,000ドル、規模の大きなものでは10,000ドルから25,000ドルもの大金が賭けられていました。勝てば1年間は生活できるほどの賞金を手に入れられる反面、負ければすべてを失うハイリスク・ハイリターンの危険なギャンブルだったのです。レースは毎週末、デトロイト市内の各所で開かれ、一攫千金を狙う深夜の路上には多くの改造車が集結していました。
鍛え抜かれた肉体を持つバンクスは、街のゴロツキたちのボスとして、そして死をも恐れぬ負け知らずのストリート・レーサーとして、周囲から “マッド” マイクの異名で恐れられる存在だったのです。
しかし、そんなバンクスの激しい生活にも決定的な転機が訪れます。それは、親友であり仕事のパートナーでもあったクラレンス・ジェームズ・キナードの死でした。ある仕事の際、取り立てられた側が二人の車のあとを執拗に追いかけてきたことで激しいカーチェイスへと発展。追ってきた車が放った銃弾がキナードに命中し、運転していたバンクスのすぐ隣で彼は息を引き取ってしまったのです。このキナードの死が、バンクスをハスラー稼業から完全に足を洗わせ、音楽の道へと本格的に向かわせる大きな引き金となりました。
やがてバンクスは、ブラック・ロックやレゲエを演奏するバンドで活動を始め、その後パーラメントやファンカデリックとも関係を持つようになります。ジョージ・クリントンやバンドのメンバーたちから機材の使い方やテープ操作などを直接教わり、ツアーに同行させてもらうこともありました。そして、彼もまたエレクトリファイン・モジョのラジオを熱心に聴いていたリスナーの一人だったのです。
生粋のバンドマンだったバンクスがアンダーグラウンドな電子音楽に興味を持つきっかけとなったのは、姉が住むシカゴを訪ねた時のことでした。姉に連れられて行ったクラブで、DJがRoland TR-909を駆使しながらアシッド・ハウスを巧みにミックスしている光景を初めて目の当たりにします。
デトロイトに戻ったあとも、バンクスはシカゴで聴いた未知の音楽が頭から離れず、機材を確かめるために楽器店を訪れました。そこでたまたま出会ったのが、ホアン・アトキンスだったのです。
バンクスは当時の出会いをこのように振り返っています。 「ホアン・アトキンスに会ってテクノを教えられたんだ。機材を買いに楽器屋に行ったら、そこに彼がいてね。しばらく楽器屋でドラムマシンをいじっていると、ホアンがおれに声をかけてきたんだ。『おまえ、そのドラムマシンが欲しいなら、おれが持っているやつを売ってやってもいいぜ』って。彼はそう言うと、俺を彼の自宅へ連れていってくれた。そこでホアンは俺に、彼自身が作っている作品を聴かせてくれたんだ。おれたちはそれから友だちになってね。機材の使い方やレコードの作り方もホアンが教えてくれたんだよ。<Music Institute>の存在を教えてくれたのもホアンだった」
他の多くの駆け出しのミュージシャンたちと同じように、当時のバンクスも工事現場や工場など、様々な労働を掛け持ちしながら生活費を稼がなければなりませんでした。その過酷な日々のなかで、皮肉にも「強制退去を手伝う」という仕事が、のちにテクノサウンドの構築に不可欠となるいくつかの機材を彼にもたらすことになります。
バンクスはのちに、自らの哲学をこのように熱く語っています。
「手に入る物は何でも使ったよ。キーボードに関しては全て質屋で手に入れた。機材の大半は質屋か、Craigslist(クレイグズリスト)のような連絡のやりとりで手に入れていたね。強制退去の仕事でも機材が手に入った。機材が必要な時にはパーフェクトな環境だったよ。だが、俺に言わせれば、機材なんてどうでもいいんだ。機材はそこまで重要じゃない。ハートが肝心なんだよ。考えることが必要なんだ。あとは愛と情熱さ。勉強すればできるっていうもんじゃない。それに、機材や勉強ってのはあまりにも遅すぎるんだよ。俺のスピードには到底ついてこられない。コンピューターだって俺には勝てないのさ。鈍すぎるね」
Underground Resistance

Final Cutから独立したジェフ・ミルズと連絡を取り始めたバンクスは、Underground Resistance(アンダーグラウンド・レジスタンス)、通称「UR」と呼ばれるプロジェクトを練り始めました。二人はそのコンセプトについて深く語り合い、音楽と一緒に様々なメッセージを伝えていくために、大量のアイデアを考案しては、しかるべき時期が到来するまでそのアイデアを大切に温めていたのです。
1980年代後半、バンクスはMembers of the House(MOTH)というグループを結成しました。Members of the Houseは、メンバーが自由に入れ替わりながら複数のバンドが音楽をリリースしていく、いわばクルーのような存在であり、そこにはMike “Agent X” ClarkやGerald Mitchellなども参加していました。
彼らは非常にソウルフルなR&Bサウンドをハウスやテクノと組み合わせることもありました。12インチシングルを数枚リリースしたのち、バンドのメンバーの一人がスタジオミュージシャンになるためにデトロイトを去ることになり、バンクスはいよいよURを本格的に立ち上げる時期が来たと判断します。
このMembers of the Houseは、あらゆる意味でURの強固な基礎を作り上げることになりましたが、そのサウンド自体は大きく異なっていました。Members of the Houseがハウスをベースとした多幸感のあるパーティーサウンドだったのに対し、URはハードで好戦的なテクノへと鋭く変化していったのです。
1990年代に入ると、Mike “Agent X” Clarkによる提案で、メンバーを招集してニューヨークで開催されていたNew Music Seminarへ出向き、急成長を遂げていたデトロイトサウンドを広く知らしめようと考えました。New Music Seminarは、毎年6月にニューヨークで開催される音楽カンファレンスおよびフェスティバルであり、URを始動させるには絶好の機会でした。このとき招集されたメンバーの中には、Terrence Parker(テレンス・パーカー)やRobert Hood(ロバート・フッド)の姿もありました。
活動の最初の数年間、バンクスが作った黒地に白文字のURのロゴTシャツを、メンバー全員が着用していました。そのTシャツをきっかけに、周囲から「Underground Resistance」とは一体何なのかと大きな注目を集めるようになります。しかしバンクスはあえて自分たちの正体を明かさず、URの定義を説明もしないまま、常に謎めいた存在であり続けることでニューヨークのシーンに強烈なインパクトを与えました。
Underground Resistanceはアーティスト名であると同時に、自分たちが運営する独自のレーベル名でもありました。バンクスは、自分たちが戦うべき敵を「プログラマー」と呼び、URの究極の目的はそのプログラマーを粉砕することであると断言します。 彼は「レジスタンスとはプログラミングされた心を解放することであり、それを仕組んだプログラマーたちに対する闘争なんだ」という信念を掲げました。
当時、バンクスやミルズたちは音楽業界に対して激しい不満を抱いていました。その頃のデトロイトではケヴィン・サンダーソンやデリック・メイが世界的な知名度を獲得しており、メジャーのレコード会社が彼らに言い寄っては、でたらめな契約を結ぼうと画策していた時期で、二人はそうした商業主義的な状況にすっかりうんざりしていたのです。
ミルズ自身もFinal Cut時代に、レーベルとの過酷な契約から抜け出すために、自分たちの音楽の権利を文字通り手放さなければならなかった苦い経験があり、音楽業界でキャリアを積むのであれば、基本的にはすべてを自分たちの手でやらなければならないと痛感していました。そしてバンクスもまた、全く同じ思想を共有していたのです。
「ただレコードを出すのではなく、みんなに何かに気が付いて欲しかったんだよ。すべてのことは目的があった。それがURだ。ただ曲だけを作ることはしなかった。曲を作る前にまず話し合って、そのコンセプトを決めてから、ぼくたちは曲作りに入った」とミルズが話すように、そのストイックな姿勢はレーベルとしての<UR>のリリース形態にも如実に表れていました。通常、レーベルのカタログ番号は1番から順番に進むものですが、<UR>はあえて番号を飛ばし、その飛ばされた番号のレコードが2年後や5年後に突如としてリリースされることも珍しくありませんでした。
こうしてURは、楽曲の制作からレコードのプレス、リリース、ディストリビューション、宣伝にいたるまで、そのすべてを自分たちだけで完結させます。さらにレコードのリリースだけにとどまらず、彼らのスローガンを印刷したビラを街頭で配るなど、数々のメッセージ性の強い独自の運動を展開し、インディペンデントでありながら世界中で絶大な人気を集めていきました。
幾つもの重要作を重ねていったURの活動は、1992年にリリースされたシングル<world2world>によって、一つの大きな節目を迎えようとしていました。
そこに収録されている「Jupiter Jazz」は、テクノのなかに「ジャズ」という精神的キーワードを大胆に持ち込んだ記念碑的な作品でした。特徴的なオーケストラ・ヒット風のシンセリフに、ブルースの循環コードの上を自由にうねりながら走り抜けるアシッドなベースサウンド、そしてポルタメントを効かせたシンセ・フルートの音色を用いたマイク・バンクスのエモーショナルなソロ・パートは、URの持つソウルフルネスを極限まで高め、デトロイト・テクノの歴史的傑作として今なお語り継がれています。
Undergroud Resistance – Jupitar Jazz
そして<world2world>は、ミルズとバンクスの二人によるURとしての最後の作品にもなりました。ミルズはこのEPを最後にURを脱退し、のちにミニマルテクノの深淵を追求していくことになります。
ミルズはURが行ったヨーロッパツアーを通じて、自分たちの音楽が世界へと爆発的に広がる可能性を肌で感じていました。そのため、URの支部をニューヨークに設立し、もっと世界に向けて打って出るべきだと考えましたが、バンクスはあくまでデトロイトに深く根差した活動にこだわり、世界に出る必要はまったくないと考えていたのです。
そうした方向性の違いが生じていたタイミングの中で、ニューヨークのクラブからミルズのもとへ、レジデントDJの誘いの電話が舞い込みます。それは、引っ越しにかかる費用もアパートの家賃もすべてクラブ側がまかなうという、破格の条件付きでした。わざわざデトロイトに住む自分を指名して誘ってくれたその熱意に、ミルズにとって断る理由はどこにもありませんでした。
ミルズが脱退したあとのURは、バンクスと流動的なメンバーによるプロジェクトへと移行していきます。そして1993年、<GALAXY 2 GALAXY>名義でリリースされたEPに収録の「Hi-Tech Jazz」では、テクノとジャズのさらなる高次元での融合が推し進められ、エレクトロニック・ミュージックの歴史に永遠に輝く不朽の名曲となったのです。
Underground Resistance – Hi-Tech Jazz
こうしてUnderground Resistanceは、その圧倒的な音楽性と強固な精神性の両面からダンスミュージックの歴史に深くその名を刻みました。デトロイトのテクノおよびハウスシーンが世界的な存在へと飛躍するための極めて大きな役割を担い、のちに続く次世代のデトロイトのDJたちが世界を舞台に活躍するための確固たる布石となったのです。


