1990年代に隆盛を極めたハウスミュージックは、2000年代にはニューヨークから再びヨーロッパへと主戦場が移り、テクノロジーとの融合が進みます。
ハウスミュージックの作り方は生楽器、サンプリング、ハードウェアを中心とした制作から、DAW、バーチャルシンセ、プラグインなどのソフトウェアを中心とした制作になり、ソウルフルなものから、よりエレクトロニックな方向へとシフトしていきました。
プログレッシブハウス、テックハウス、エレクトロハウス、ニューディスコなどハウスミュージックの細分化が進む中、ベルリンのミニマルテクノシーンのさらなる成長は特筆すべき出来事でした。
ハウスミュージックもミニマルシーンに合流し、ミニマルはダンスミュージックの一大潮流となり、他のサブジャンルにも大きな影響を与え、ベルリンはそのHubとして、世界中からテクノ、ハウスなどのダンスミュージックファンや、アーティストが集まるようになりました。
ベルリン
ドイツでは、古くはKarlheinz Stockhausen(カールハインツ・シュトックハウゼン)、Tangerine Dream(タンジェリン・ドリーム)、Kraftwerk(クラフトワーク)などを通じて、1950年代〜1970年代にかけてエレクトロニック・ミュージックの土壌が形成されており、1980年代にデトロイト、シカゴの影響を受けてテクノへと発展していきました。
1980年代半ば、ソ連の指導者ゴルバチョフがペレストロイカとグラスノスチの開放的な政策を実施したため、東ベルリンの教会がコンサートの代替会場として使用されるようになり、1989年には、エレクトロニック・ミュージックの祭典「Love Parade(ラブ・パレード)」が初めて開催されました。
ラブ・パレードは毎年7月にドイツ(2006年まではベルリンのみ)で行われていた世界最大規模のレイヴで、当初はDJであるDr. Motte により始められた150人ほどの小さなパレードでしたが、毎年参加者が増え続け、ピークの1999年には国内外から150万人を動員するほどになりました。
90年代を通じて、ジャーマンテクノ、ジャーマントランス、ハードミニマル、アシッドハウスが流行し、ドイツ国内からSven Väth(スヴェン・フェイト)、Westbam(ウェストバム)、Paul van Dyk(ポール・ヴァン・ダイク)、 Ellen Allien(エレン・エイリアン)、Hardfloor(ハードフロア)、Thomas Schumacher(トーマス・シューマッハー)、Chris Liebing(クリス・リービング)など、次々とスターDJが生まれました。
ドイツの電子音楽は21世紀のダンスミュージックとモダンポップスの融合によるグローバル化を進め、 電子音楽がアンダーグラウンドアートから国際的な現象へと世界的に移行するのに貢献し、ラブパレードを始め、Winterworld(ウィンターワールド)、MayDay(メイデイ)などのフェスティバルは、レイヴやクラブと並んで目立つイベントに成長しました。
ドイツのエレクトロニック・ミュージックが盛り上がっていく中、ベルリンが世界のダンスミュージックを引っ張っていくようになります。
1991年にベルリンの壁が崩壊すると、壁があった地域で、廃墟と化した地下壕、工場、隣接した空き地などを使用し、テクノやダンスミュージックの違法なパーティーが盛んに行われるようになりました。
ベルリンの壁が崩壊したことは、政治的な革命であっただけでなく、文化的な目覚めの始まりでもあり、これによりベルリンは瞬く間にテクノの中心地へと変貌を遂げ、ドイツ国内外から新進気鋭の著名なDJ、アーティスト、若者が集まり、レイヴやダンスのナイトライフ文化を確固たるものにしました。
この時期に作られた<Tekknozid>や<UFO>のようなベルリンのアンダーグラウンドなクラブが、のちに<Tresor>や<E-Werk>などの伝説的なクラブへと発展しています。
ベルリンでは、音楽、デザイン、写真、建築、全てにおいてすばらしい文化が形成されていましたが、2000年代に入ると、多くのアーティストが世界中からベルリンに移住し始めました。それを促したのが、安い家賃と簡単に入手できるアーティストビザ、 そして、格安航空会社が登場したことが、ベルリンに移住したアーティストにとって大きな変化の一つでした。
以前は、ヨーロッパ各地でプレイしているDJの場合、ベルリンからヨーロッパの他の主要都市へ行くために、フランクフルトやミュンヘンを経由しなければならず、フライト代がかなり高くなっていましたが、格安航空会社のフライトが始まると、観光客はヨーロッパのどこよりもベルリンに簡単に来ることができるようになり、アーティストも簡単に国外に出ることが出来るようになりました。
ベルリンはこの新しいクリエイティブコミュニティの中心となり、世界中のダンスミュージックファンやアーティストたちを引き寄せ、パーティーで遊ぶためにやってきた彼らは、安い家賃と簡単に取得できるアーティストビザが提供する気楽な生活を気に入り、そのまま居残る人もいました。そして「ミニマル」というスタイルがこのシーンを象徴するものとなります。
現在ではニューヨーク・タイムズ紙はベルリンを「アンダーグラウンド・エレクトロニック・ミュージックの世界的な首都」と評しています。
Basic ChannelとHardwax
90年代初頭にUR(Underground Resistance)脱退後のJeff MillsとRobert Hoodや、Daniel Bell(DBX)、Richie Hawtin(Plastikman)らによって実験的にアメリカでリリースされ始めたミニマルテクノは、ダンスミュージックの踊れる最小限の要素だけを残し、彫刻のごとく不必要な音を削り落としていきました。
ミニマルテクノは90年代を通してハードミニマル、ダブテクノ(ミニマルダブ)に派生して世界中で人気を高めていきましたが、ベルリンにおいては、Basic Channel(ベーシックチャンネル)とHardwax(ハードワックス)がその重要な存在の一つでした。
Basic Channel – Octagon
Basic Channelはベルリンで1993年にMoritz von Oswald(モーリッツ・フォン・オズワルド)とMark Ernestus(マーク・エルネストゥス)で結成されたテクノユニット兼レーベルで、ミニマルテクノにダブの手法を取り入れたダブテクノ(ミニマルダブ)を生み出しました。Rhythm&SoundやMaurizio名義でも多数のリリースを行い、ベルリンでのミニマルシーンの基盤を作り上げた存在です。
Basic Channelは、1989年にMark Ernestusによってオープンされたテクノ、レゲエ、ダブなどを扱うレコードストア<Hard Wax>を中心に活動を行っており、<Hard Wax>の入っている建物は、レーベル事務所兼マスタリングスタジオ「Dubplates&Mastering」としても機能しています。
なお、<Hard Wax>が主催している不定期イベントで使用されているサウンドシステムは大阪のレゲエのサウンドシステム、Killasan Movement(キラサン・ムーヴメント)のもので、Killasan Movementが運営していた大阪のクラブ<Jugglin Link City>が閉店した際に、友人関係にあったMark Ernestusが預かることになり、以降システムの管理をしているそうです。
ベルリンのエレクトロニック・ミュージック業界で最も古いレコード店の一つとなった<Hard Wax>は、世界のテクノコミュニティとの重要なハブの役割を果たし、テクノシーンの成長に大きく貢献しました。
Perlon
90年代後半になるとミニマルは、さらにリズムに焦点を当てたディープなものになり、ハウスミュージックとも融合し始めます。
<Perlon(ペルロン)>は1997年にThomas Franzmann (Zip)、 Markus Nikolai、Chris Rehbergerによってフランクフルトで設立され、その後ベルリンへと拠点を移しました。
<Perlon>のサウンドはベルリンを形成するのに貢献したエレクトロニック・ミュージックレーベルの中で最も抽象的なサウンドのレーベルの一つです。
要素を極限まで突き詰め、リズムの断片を散りばめた作品は、一聴してハウスミュージックとは捉えることが出来ないかもしれません。それまでのミニマルがテクノのアプローチで制作されていたのに対して、<Perlon>はミニマルの中にハウスグルーヴを注入し、ダンスミュージックの境界線を押し広げました。
Baby Ford & Zip – Windowshopping
Soulphiction Presents Manmade Science – Lick A Shot
レーベルの成功は、創立者たちの功績もさることながら、リリースしてきたアーティストや、古くからの友人たちとのコラボレートによって実現されて来ました。Ricardo Villalobos(リカルド・ヴィラロボス)もその中の一人です。
Ricardo Villalobosは、チリで生まれて3才の頃にドイツに移住しました。90年代初頭からDJを始め、1999年から<Perlon>での活動を開始し、のちに同郷のLuciano(ルチアーノ)と共に、ミニマルハウスのカリスマとしてシーンを牽引していく存在となります。
最初に、Markus Nikolaiがチリでの休暇中にRicardo Villalobosに出会い、その後間もなく、フランクフルトのNeuton(レコードディストリビューター)のオフィスでZipに紹介しました。Ricardo Villalobosが持参していたDATテープをリビングルームで聞いたあとは、すぐに一緒に仕事をするようになりました。
<Perlon>の初期の頃は、アーティストが自分たちの名前を売り出すためのプラットフォームというよりも、流動的にチームを組み、実験を重ねているようでした。
Hombre Ojo(Benjamin Wild、Markus Nikolai、Ricardo Villalobos)、Narcotic Syntax(James Dean Brown、Zip)、Pantytec(Zip、Sammy Dee)、Pile(Zip、Sammy Dee、Markus Nikolai)、Ric y Martin(Ricardo Villalobos、Martin Schopf)、Sense Club(Luciano、Ricardo Villalobos)など、ミステリアスでシュールな別名義を使っていたため、細かいクレジットを見なければ誰が関わっているのかが不明でした。
メインストリームの音楽業界は、生き残るためにインターネットを受け入れることを余儀なくされてきましたが、<Perlon>はデジタル革命の全てを受け入れることは拒否してきました。
作品をデジタルリリースしておらず、<Perlon>のシングルリリースを購入するには未だにレコードしかありません。しかし、Zipは「未来に反対しているわけではない」と主張しており、事実、Ableton(DAWソフト)を使用し始めた初期の一人でもあります。
現在のミニマル系レーベルからヴァイナルオンリーのリリースが多く見られることから、<Perlon>の一貫性と信念はミニマルシーンに浸透し、少なからず影響を与えていることが分かります。
Horror Inc. – The Vanishing
Matt John – Princess Unknown
Sammy Dee – Purple Hummer
Richie HawtinとM_nus
2000年代初頭から中盤に入ると、ミニマルハウスから派生したマイクロハウス、クリックハウスと呼ばれる、細かくカットアップしたサンプル音や、クリック音をリズミカルに散りばめたスタイルが大流行します。
そんな折、Richie Hawtin(リッチー・ホウティン)がベルリンに移住し、自身のレーベル<M_nus(マイナス)>を通して、ミニマルを世界的なスタイルへと昇華していくことになります。
Richie Hawtinはカナダ、オンタリオ州のウィンザーで育ち、10代から対岸のデトロイトへ通うようになり、DJとして活動を始めました。
1989年に地元のカナダでレコーディングや音楽販売に伴うビジネスなど、様々な知識を持つJohn Acquaviva(ジョン・アクアヴィヴァ)と出会い、レーベル<Plus 8>を立ち上げ、F.U.S.E.名義やPlastikman名義でリリースを重ね大きな成功を収めました。
どんどんミニマルな表現を探究していった結果、John Acquavivaとは別の道を進むことになり、1999年に自身のレーベル<M_nus>を立ち上げます。<M_nus>はミニマルテクノを探求し、クリエイティブで構造的、無機質でシンプルな音をコンセプトにしたレーベルとしてスタートしました。
Ableton(DAW)、Final Scratch(StantonとNative Instrumentsが共同開発したDVS)、Lemur(マルチタッチコントローラー)など、常にいち早く最新のテクノロジーを取り入れ、新しい表現方法を模索していました。
1999年のエフェクトとドラムマシンで成形された38トラックを含む「Decks, EFX & 909」や、100曲以上からループを抜き出して分解、再構築した2001年の「DE9 | Closer to the Edit」など、MIXの表現方法を次々と塗り替え、2008年の10周年を記念したプロジェクトでは、Magda、Gaiser、Heartthrob、TroyPierce、Marc Houle、ビジュアル担当のAli.M.Demirelなど、<M_nus>クルーと共に世界中をツアーし、音楽と映像、ライティングを同期したインタラクティブなショーケースという新しいミニマルの表現を提示しました。
タイトに洗練されたサウンド、ビジュアルイメージ、練り上げられたコンセプトを基に、2000年代のミニマルの方向性をRichie Hawtin率いる<M_nus>が決定付け、ミニマルが世界を席巻し、ディープハウス、テックハウス、プログレッシブハウス、エレクトロハウスなど、他のスタイルもベルリンのミニマルシーンを通過したことにより、ハウスミュージックは次のステージに引き上げられたと言えます。
ソフトウェアカンパニー
ベルリンがダンスミュージックの中心地となったのには、音楽ソフトウェア会社の成長の後押しもありました。
2000年代に入りDAW、バーチャルインストゥルメント、プラグインなど音楽制作ソフトの業界が飛躍的な成長を遂げると、Native Instruments、Steinberg Cubase、Emagic Logic(のちにAppleが買収)、Ableton Liveなどのドイツメーカーのソフトが市場シェアを急拡大しました。
その中でも、Native Instruments(ネイティブ・インストゥルメンツ)、Ableton(エイブルトン)は、本社をベルリンに構えていることから、ソフトウェアサンプラー、DJソフトウェア、ライブパフォーマンスツールなど、エレクトロニック・ミュージック、DJに向けた取り組みにも余念がありませんでした。
Native InstrumentsはDJソフトウェア「Traktor」を2000年に初めてリリースし、2003年にStanton Magneticsと共同で、タイムコード・スタンプが押されたレコード盤でデジタル音源を制御出来るDVS(デジタル・ヴァイナル・システム)「Final Scratch」を開発しました。のちに、この技術が「Traktor」に実装され、多くのDJに利用されることになりました。
Richie HawtinとJohn Acquavivaが「Final Scratch(Traktor)」の開発援助と宣伝活動を行ったことにより、DVSは広く認知されるようになりました。
一方、AbletonはライブパフォーマンスやDJで使用されることを念頭に置いた、既存のDAWとは全く違う構造のソフトウェア「Ableton Live」を開発しました。
Ableton Liveは独特の構造、機能、拡張性から2000年代中盤から人気を高め、ライブパフォーマンスに必要不可欠な存在となり、エレクトロニック・アーティストから支持を集めました。
他にも、Beatportが支店を構え、Soundcloud、LANDRがベルリンで創業するなど、多くの音楽系スタートアップが集まり、相乗効果によりベルリンのダンスミュージック業界への影響力を強めていきました。
ベルリン発レーベルのプレイリスト
Maya Jane Coles – From the Dark feat.Moggli [Mobilee]
The Poor Knight – Sunset [Cabinet]
Ame – Rej [Innervisions]
H.O.S.H. – Don Arp [Porker Flat]
Andre Crom & Martin Dawson – In The City [Off Recordings]
Ricardo Villalobos – Enfants [Sei Es Drum]
SIS – Nesrib [Cécille Records]