80年代中盤になると、Frankie KnucklesとRon Hardyに強い影響を受けたシカゴの若いアーティストが台頭し、Jessi Saundersの「On & On」がレコードでリリースされたことを皮切りに、シカゴから続々とハウスミュージックがリリースされました。
- Frankie Knuckles & Jamie Principle「Your Love」
- Farley “Jackmaster” Funk「Love Can’t Turn Around」
- J.M. Silk「Music Is The Key」
- Phuture 「Acid Tracks」
- Steve “Silk” Hurley 「Jack Your Body」
- Mr Fingers 「Can You Feel It」
- Armando「Land of Confusion」
- Ralphi Rosario「You Used To Hold Me」
- Marshall Jefferson「Move Your Body」
- Lil Louis 「French Kiss」
シカゴハウスと言われるこれらの音楽は、シカゴ、ニューヨークなど一部の都市では人気がありましたが、まだアンダーグラウンドな存在であり、アメリカ全体ではブームと呼べるものではありませんでした。
しかし、イギリスのレコード会社がシカゴのアーティストによるハウスミュージックをリリースし始めると、シカゴハウス、アシッドハウスはアメリカよりも先に、海を超えたヨーロッパから世界的な大ブームへと繋がっていきます。
アメリカ国外でヒットした最初のハウスミュージックとして、Farley “Jackmaster” Funkの「Love Can’t Turn Around」が、1986年にイギリスのシングル・チャートで10位を記録し、ハウス、アシッドハウス、テクノの人気が加速すると、1987年にはUK産ハウスミュージックとしてM|A|R|R|S(マーズ)の「Pump Up the Volume」が、ヨーロッパを中心に大ヒットとなりました。
Farley “Jackmaster” Funk – Love Can’t Turn Around
M|A|R|R|S – Pump Up The Volume
これがハウスミュージックの人気を決定付け、1988年から1989年にかけて起こる「セカンド・サマー・オブ・ラブ」という一大ムーブメントへと繋がりました。
Ibiza(イビサ)のバレアリック
アルゼンチン生まれのDJ Alfredo(DJ アルフレッド)は1976年9月にバレアレス諸島のイビサ島にスペインに移住し、1982年にDJを始め、1983年に<Amnesia>のレジデントDJとなりました。この頃の<Amnesia>は、イビサ島で最もアンダーグラウンドなクラブとみなされていました。バレアリック・ビートの父とも呼ばれるDJ Alfredoの折衷的なスタイルは、1980年代後半にイビサ島内外で爆発的に広まったダンス・ミュージックに大きな影響を与えました。
バレアリック・ビートは、人気の観光地であるバレアリック諸島のイビサ島で人気があったことから名付けられ、1980年代半ばにDJによって選曲されていた様々なジャンルが入り混じった折衷的なダンス・ミュージックのことです。
一般的にイビサ島外の人々はバレアリック・ビートを音楽ジャンルとして捉えていますが、イビサ島を拠点とするコミュニティではバレアリック・ビートをコンセプトとして捉えており、ビートとグルーヴが足を動かし、その上に乗っているものが耳に心地よいものであれば、どんなジャンルの曲であろうと関係ないとしています。
DJ Alfredoが<Amnesia>で初めてプレイしたのは1983年のプライベート・パーティーで、ハウス、ディスコ、ポップスをミックスしたDJは最初はあまり評判が良くありませんでした。それでもアルフレッドは粘り強く活動を続け、翌年には人気を集め始め、最終的には6年間クラブでのレジデントを務めました。
DJ Alfredoの影響を受けた中に、4人のイギリス人DJがいました。
Danny Rampling(ダニー・ランプリング)、Paul Oakenfold(ポール・オーケンフォールド)、Nicky Holloway(ニッキー・ホロウェイ)、Johnny Walker(ジョニー・ウォーカー)は、1987年にPaul Oakenfoldの誕生日を祝うために休暇でイビサを訪れ、<Amnesia>のパーティーに遊びに来ました。
イビサのDJで友人のTrevor Fung(トレヴァー・ファング)によって、イビサのアフターアワーを案内されました。そこでは国際色豊かな美しい人々が集まっていて、とてもワイルドな場所でした。当時のイビサは今のような大々的なメディア露出がなかったため、すべてがもっと自然に溢れていました。
<Amnesia>を訪れた彼らは、そこでドリーミーでヒプノティックなロック、ポップ、ディスコなどに、USから輸入された最新のハウスミュージックを組み合わせたDJ Alfredoのプレイを聴き、その頃、流通し始めた多幸感を強める作用を持つドラッグMDMA(通称エクスタシー、Eなどとも呼ばれる)の効果も相まって、過去に味わったことのない刺激的な夜を体験することになりました。
DJ Alfredoが音楽を織りなす方法は、まさに革命的なもので、彼がプレイするレコードはどれも非常に珍しく、独特のサウンドを持っており、それが彼を際立たせていました。DJ AlfredoはLarry Levanの友人とつながりがあり、それが彼のサウンドに影響を与え、プレイするハウス・レコードに影響を与えていたと言われています。
<Amnesia>での素晴らしい体験をした4人のDJは、ポップス、ソウル、ファンク、ジャズなどのサウンドに加え、当時アメリカから輸入していたハウス・ミュージックを含むDJ Alfredoのユニークな音楽が、MDMAというドラッグとの強力な相乗効果によって、人々の壁を取り払い、ダンスフロアでの一体感を高めることに気付きました。4人はこの体験をロンドンに持ち帰ることを固く決心していました。
Second Summer Of Love(セカンド・サマー・オブ・ラブ)
セカンド・サマー・オブ・ラブとは、1988年から1989年にかけてイギリスで、アシッドハウスの台頭と、MDMAを燃料としたレイブ・パーティーが大流行した時期に付けられた一大ムーブメントの名前です。
由来のもとなるサマー・オブ・ラブ(Summer of Love)は、1967年にサンフランシスコで起きた社会現象で、音楽、ドラッグ、フリーセックス、表現、政治など文化的、政治的な主張を行う”ヒッピー”と呼ばれる人々を中心としたものでした。
快楽主義と自由との類似点から、UKで起きたムーブメントはセカンド・サマー・オブ・ラブと呼ばれるようになりました。
1985年頃からMDMAがパーティードラッグとしてイギリスに流通し始め、ハウスミュージックと結びついた結果、かつてない現象を巻き起こし、人々はカラフルな自作のタイダイTシャツにバギーパンツなどのレイブファッションに身を包み野外パーティーに集まりました。
このブームの火付け役となったのが、<Amnesia>での素晴らしい夜を体験した4人のDJでした。
イギリスに戻ったDanny Rampling(ダニー・ランプリング)は、ロンドンにイビサの魔法を少しでもかけようと、自分のクラブナイトを始めました。
自分たちの経験とアルフレッドが紹介したサウンドを再現することに着手し、イギリス初のバレアリック・レイブと言われるパーティー「Shoom」をロンドンのサザークにある廃墟となったフィットネスセンターで開催しました。
300人ほどのキャパシティの部屋に、リンゴとチェリーのフレーバーの煙を充満させ、スマイルフェイスのロゴやスローガンを描いたバナーで部屋を飾りました。バレアリックなバイブスに最新のUSハウスを組み合わせたAmnesiaで過ごした素晴らしい時間を表現したいと考え、Danny Ramplingは、ロンドンのクラブ<Wag Club>のデザイナーで、スマイリーフェイスをあしらった服を好んでいたBarnzleyから服を借りて「Shoom」で着るようになった。
今ではすっかりレイブ、アシッドハウスのアイコニックな存在となったスマイリーフェイスや、燃え盛るようなポジティブスピリットに飾り付けられた「Shoom」は、アシッドハウス信奉者にとってほぼ宗教的体験に近い存在となりました。
一方、夏の終わりにロンドンに戻ったPaul Oakenfold(ポール・オーケンフォールド)は、ロンドン南部のナイトクラブ、<Project Club>でバレアリック・スタイルのパーティーを披露しました。このクラブにはイビサ島を訪れたことがあり、バレアリックのコンセプトに精通している人々が集まっていました。エクスタシーを使い、バギーパンツと明るい色を基調としたファッションで、進化を続けるイギリスのレイブ・シーンの中でバレアリック・カルチャーを広める役割を担っていました。
1988年にはクラブ<Heaven>にて「Spectrum」と呼ばれる月曜日の夜のイベントを開催し、毎週1,500人以上の人を集め、バレアリック・ビートのコンセプトをより多くのオーディエンスに知らしめました。
また同年、Nick Divaris、John “Johnny” Rocca、Mickyとバレアリック・スタイルのバンドを結成し、Electra名義でリリースを始めると、その後、<Perfecto Records>を立ち上げ、Steve Osborne(スティーブ・オズボーン)と協力して音楽制作を開始しました。
90年代には、イギリスのDJはロックスター並の扱いを受けるようになりました。のちにCarl Cox、Sasha、John DigweedといったUK発のスーパースターDJが誕生しますが、Paul Oakenfoldは最初のスーパースターDJと言われており、U2のツアーに帯同するなど、活躍の場を拡げて、3時間のDJプレイで四桁の収入を稼ぎ出すほどになりました。
バレアリック、アシッドハウスのパーティーが発展し、レイブ・パーティーと言われる大規模な野外ダンスイベントが、1988年ごろからロンドンで行われ始め、ほとんどが違法な形で行われていました。そのため、警察に情報が漏れないようにフライヤーには場所が記載されていないこともありました。膨大な音響や照明機材をこっそり準備し、前日に主催者が直接連絡したり、海賊ラジオを使って暗号的に詳細を伝えるなどしていました。
レイブという新しいアイデアはお金に聡いプロモーターたちによって、数年後にはイギリス全土を巻き込み、遊園地や農場、飛行機の格納庫などの場所で数千人規模で開催されるようになりました。
92年にSpiral Tribeが主催したレイブパーティーでは、2万5千人を集めたと言われています。
レイブの巨大化に伴って、イギリス政府によって本格的な規制が始まり、レイブ主催者に課せられる罰金額が大幅に増え、逮捕者が続出しました。その後のクラブシーンの成長と、大型化に伴い、リスクのある非合法レイブの開催は自然に衰退し、ハウスミュージックは再びクラブへと主戦場を移していくことになりました。
しかし、レイブカルチャー自体は、イギリス国内を飛び出しヨーロッパを主体に広がっていくことになり、最終的には合法的なダンスミュージック・フェスティバルに発展していきました。
Hacienda(ハシエンダ)
イギリスでのハウスミュージックのムーブメントを押し進めたもう一つの存在としてマンチェスターのクラブ<Hacienda>があります。
1982年5月21日にマンチェスターでオープンしたハシエンダは、ニューヨークのパラダイスガレージをモデルに作られたクラブで、レコード・レーベル<Factory Records>のTony Wilsonとニューウェーブバンド、New Orderが大部分の資金を提供していました。
<Factory Records>のグラフィック・デザイナー、Peter Savilleの推薦でBen Kellyがデザインしたクラブは、ステージ、ダンス・エリア、バー、クロークルーム、カフェテリア、DJブースのあるバルコニーで構成されていました。
オープン初期の頃はファンク、ソウル、ディスコをミックスしたような選曲でしたが、1986年にはシカゴハウスを中心とした音楽が中心となり、ハウスミュージックのプレイを始めた最初のイギリスのクラブの一つとなりました。
決定的な変化が訪れたのは1988年のことでした。エクスタシーの使用がクラブの存在を変え、ハシエンダでの夜は、素晴らしい夜の外出から、人生を変えるような強烈な体験へと変わっていきました。
1988年7月にMike Pickering(マイク・ピカリング)とJon Dasilva(ジョン・ダシルバ)がレジデントを務めたアシッド・ハウス・パーティー「Hot」が先駆的なイビサ・パーティーとして成功したことで<Hacienda>の人気を決定的にしました。
また、この頃のマンチェスターでは、インディー・ロックとダンスミュージックが融合した「マッド・チェスター」と呼ばれるムーブメントが起こっています。伝統的なロックのフォーマットを取りながらも、ハウスの4つ打ちのビートを導入し、「ダンス出来るかどうか」を重視した音楽が生まれて、New Order、Happy Mondays、The Charlatans、Primal Scream、The Stone Rosesなどのバンドが人気を博していました。
その中には、Primal Screamの「Loaded」や、Andrew WeatherallとPaul Oakenfoldがリミックスを行ったHappy Mondaysの「Madchester Rave On (Remixes)」など、DJがリミックスし、英国チャートのトップ10に入るヒットとなる作品がありました。
1989年7月14日、イギリスで初めてエクスタシーに関連した死亡事故が<Hacienda>で発生しました。ハシエンダは素晴らしいコミュニティでしたが、ドラッグの使用がエスカレートしたため、クラブはドラッグの主要な市場となり、ギャングが利権をめぐって争ったため、クラブの内外で銃撃事件などの暴力が絶えませんでした。
経営母体のファクトリー・レコードが1992年に倒産した後も、ハシエンダは運営されていましたが、麻薬売買の場となり傷害事件が多発し、警備等にさらに経費がかさむようになったなどの事情によって1997年に閉鎖に追い込まれました。
クラブのセキュリティ上の問題は、最終的にクラブが閉店する要因の1つでしたが、最も原因だったのは財政状況でした。これは主に多くの常連客がドラッグの使用により、アルコール販売から十分なお金を稼ぐことが出来なかったためと言われています。New OrderのメンバーPeter Hookは、ハシエンダは晩年に1800万ポンドもの損失を出していたと述べています。
<Hacienda>がUKのダンスミュージックシーンに残した功績は大きく、UKの多くのトップDJがHaciendaから影響を受けたと証言しています。
Paul OakenfoldのDJセット
Paul Oakenfold Live at Spectrum 1988
セカンド・サマー・オブ・ラブのプレイリスト
Sueño Latino – Sueño Latino The Paradise Version
Ce Ce Rogers – Someday
808 State – Pacific State
Primal Scream – Loaded
Soul II Soul – Happiness
Adnis – Lack of Love
Pierre Fantasy Club – Dream Girl
New Order – Fine Time (Steve “Silk” Hurley Mix)
Happy Mondays – Hallelujah (Andrew Weatherall & Paul Oakenfold Remix)
Bam Bam – Give It To Me
Tyree Cooper – Turn Up The Bass
A Guy Called Gerald – Voodoo Ray