アフロハウスとは、80年代から始まったアフロ・ディープハウスと、2000年代から始まった南アフリカ産ハウス(およびそのフォロワー)を指します。他にも間違いやすいアフロビート、アフロビーツ、アマピアノ、アフロ・テックハウスを解説。
DJでアフロハウスをかける前に、知っておきたいアフロミュージックの歴史を時系列で総まとめ。ハウスに限らず、ワールドワイドで人気のアフロ系がわかる12回連載です。
アフロハウス入門 [目次]
❶アフロビート1 ジェームス・ブラウンとナイジェリア
❷アフロビート2 カメルーン、ガーナ、マリ、南アフリカ
❸アフロハウス1 80年代のアフロ・ディープハウス
❹アフロハウス2 90年代以降のアフロ・ディープハウス
❺アフロハウス3 アフロ・ディープハウス代表曲30選
❻アフロハウス4 南アフリカ共和国のアフロハウス
❼アフロハウス5 南アフリカ共和国アフロハウスのフォロワー
❽アフロハウス6 南アフリカに影響を与えたハウス3曲
❾アフロビーツ ナイジェリアのポップミュージック
❿アマピアノ 南アフリカのアマピアノと3ステップ
⓫アフロテック1 テックハウスとアフロテックの歴史
⓬アフロテック2 アフロテックのヒット曲
アフロハウス入門 ❸ アフロハウス1
アフロハウスには、アフロ・ディープハウスと、南アフリカ産ハウス(およびそのフォロワー)、2種類があります。なぜ2種類あるのか、順を追って説明します。
まず1990年代前半「トライバルハウス」が流行りました。
これはパーカッションが強調されたハウスで、民族っぽい太鼓や打楽器の音が入っているのでトライバル、といったイメージで使われていました。
90年代半ば、様々なトライバルハウスが出てきて、ラテンテイストのものは「ラテンハウス」、アフロテイストのものは「アフロハウス」、テイストがなければ「トライバル」のままで呼んでいました。
ラテンハウスで解説した通り、ラテンハウスの元になっているラテン諸国やカリブ、ブラジルの民族音楽は、もともとアフリカから連れてこられた奴隷の人たちの音楽なので、ラテンもアフロもルーツは同じです。
使っている楽器やヴォーカル、シンコペーションの作り方で、ラテンかアフロかという差異が生まれますが、実は明確な境界線はありません。ラテンアフロハウスといった、どちらの要素も持つトラックも多数あります。
トライバルハウスは、Danny Tenaglia(ダニー・テナグリア)のTribal AmericaやTwistedなどを中心に、ハードハウスやプログレッシブハウスへと移行していきました。
2000年代、Osunlade(オスンラデ)やBlack Coffee(ブラック・コーヒー)が出てきて、彼らの音楽を「アフロ・ディープハウス」と呼ぶようになります。
2009年から、レコード会社が世界的に売り込むために、Black Coffee(ブラック・コーヒー)と南アフリカ共和国産のハウスを「アフロハウス」と呼ぶことにしました。
2010年代中期、各販売プラットフォームも、レコード会社のジャンル分けに従って「アフロハウス」というジャンル名を新設するようになりました。
2020年以降、現在は、SportifyやApple Music、Beatportなど各プラットフォームでジャンル名「アフロハウス」を選択すると、基本的には南アフリカ産のハウス(および、そのフォロワー)が出てきます。昔、アフロハウスと呼ばれていたものは、「ディープハウス」に入っています。
つまり90年代に使っていた時と、今とでは「アフロハウス」の内容が違います。この勘違いを避けて解説するために分けると、以下のようになります。
「アフロ・ディープハウス」プロデューサーの国籍を問わず、アフリカの音や精神を取り込んだハウス
「アフロハウス」南アフリカ共和国産のハウス、およびそのフォロワー
この差をうやむやにした解説が多いのですが、もともとアンダーグラウンドの現場が使っていた「アフロハウス」という言葉を、音楽業界が南アフリカ産のハウスをメジャーで売るために使い廻し、結局そちらを本家にしてしまったのが混乱の原因です。
それでは、アフロハウス登場以前の、アフロ・ディープハウスのパイオニアと言われる4曲と、代表曲の紹介です。
① Cultural Vibe – Ma Foom Bey(1986)
1986年にリリースされた、この「Ma Foom Bey(マ・フーン・ベイ)」の12inchが、最初のアフロ・ディープハウスと言われています。
Adonis(アドニス)「No Way Back」やMarshall Jefferson(マーシャル・ジェファーソン)「Move Your Body」が出たのと同じ1986年のリリースで、ハウスの初期段階です。
Cultural Vibe(カルチュラル・ヴァイブ)はNY/NZ拠点のハウス・コレクティブで、Winston Jones(ウィンストン・ジョーンズ)というハウスプロデューサーが中心人物。
この曲は、ウィンストンと、E. DavisことEdward J. Davisというマルチ・インストゥルメント奏者のふたりで作曲、そして当時NZ「Zanzibar(ザンジバル)」のレジデントだったTony Humphries(トニー・ハンフリーズ)がEditを担当しています。
タイトルの「マ・フーン・ベイ」はどこの言語でもなく、意味はありません。
バージョン名の(Love Chant Version)という表現と、曲中のアフリカンチャント(こちらも実際に意味はなく、それっぽく聴こえるように創作している)から察するに、エスニックな要素を強調するため、アフリカの言葉っぽいタイトルをつけた、と解釈されています。
当時はハウス初期で、機材が限られており、曲のベースが非常にシンプルだったので、何か特別なテイストを乗せるために「アフリカのイメージで、チャントっぽいものを入れてグルーブ感を出す」という試みで、このトラックが出来上がったと考えられます。
この曲はザンジバルやパラダイスガラージでかけられてヒットし、イギリスとスペインでも発売され、その後、別のレコードでも数回、再録されました。
② No Smoke – Koro Koro(1989)
こちらも80年代の、アフロ・ディープハウスのトラック。イギリス・ロンドンのインディペンデントレーベル「Worries Dance」からリリースされました。
No Smoke(ノー・スモーク)は、ガーナ出身で当時ロンドン在住のレゲエ/ラガマフィンのアーティストFred Mc Pablo(フレッド・マクパブロ)のこと。
そしてこの「Koro Koro(コロコロ)」で共同プロデュースに名を連ねるのが、レーベルWorries Dance(ウォーリアーズ・ダンス)オーナーのTony Addis(トニー・アディス)。
トニーは、ナイジェリアのラゴス出身で、Sir Coxsone Dodd(サー・コクソン・ドッド)やJah Shaka(ジャー・シャカ)と一緒に遊びに行くほど、ロンドンのレゲエシーンと深い関わりがありました。
また、アフロビートのパイオニアであるFela Kuti(フェラ・クティ)のマネージャーを務めていた従兄弟を通じ、オリジナルのアフロビートシーンと個人的な繋がりを持っていました。
彼は1980年、 Addis Ababa Studios(アディス・アベバ・スタジオ)というスタジオをロンドンに設立。これは当時、黒人ミュージシャン専用のスタジオがなかったためです。
アディス・アベバはエチオピアの首都ですが、トニーのファミリーネームがアディスであること、またレゲエのラスタファリ運動ではエチオピアが中心的存在であるため、この名前が選ばれました。
またトニーはレーベル「Worries Dance」(戦士のダンス)を立ち上げ、アフリカ系やカリブ系のアーティストを中心に作品発表の場を与え、レーベルをあらゆる黒人音楽の影響が融合するメルティング・ポットにしたいと考えていました。
このトニーの黒人専用スタジオに、レゲエアーティストのフレッドが目をつけます。
フレッドが初めてスタジオにやってきた時、彼とトニーは「すぐに意気投合し、その時から私たちは兄弟のようでした」とトニーは言います。
同じ西アフリカの出身、アフロビートへの愛、カスタムメイドの強力なサウンドシステムを用いるレゲエの知識、そしてクラブで流れていたアメリカのハウスミュージックへの興味。
アフロビート、レゲエ、ハウス、一見繋がりのなさそうなこの音楽は、すべてダンスミュージックであり、人が踊るためにはどういう音が効果的かということに対して、このふたりはプロの経験と技術を持っていました。
人が一番踊りやすいのはハウスのビートであり、またそのエレクトリックな音の構成が、従来の伝統的な楽器のアンサンブルから生まれるアフロビートやレゲエとは違うところも、挑戦と実験への意欲をかき立てました。
そこでふたりは、アディス・アベバ・スタジオにて共同作業を開始。
ハウスのトラックを作るにあたって、当時、基本的な機材しかなかったスタジオ・プロダクションに、レゲエのサウンドシステムの知識と技術を持ち込みます。
レゲエのサウンドエンジニアリングは、周波数スペクトルの低域を巧みに操り、当時の一般的な商業スタジオでは重視されていなかった、音の物理的な感覚を生み出し、地底のように深く、そして最大の音響インパクトで響かせるベースラインに仕上げることができます。
またダブ制作に用いられる技術は、彼らのミキシングやエフェクト(リバーブやディレイの多用など)へのアプローチに大きな影響を与えました。
アフロビートの力強くパーカッシブな性質と、レゲエの安定したヘビーなリズムから着想を得たトラックは、ウェアハウスパーティーやサウンドシステムセッションの音響環境を念頭に置いてミックスされ、ドラムとベースが大勢の観客を揺さぶり、盛り上げるようにしました。
そしてもう一点重要になるのが、子供の声による「コロコロ」のチャント。
これは出所が今でも不明で、非常にレアなワールド・ミュージックのレコードか、フィールドレコーディングされたものではないかと言われています。
「コロコロ」はナイジェリア・ピジン英語で「明確な視界」「私の目の前に」という意味があり、語感がリズミックなのも相まって、ナイジェリア出身のトニーが見つけてサンプリングに使ったのではないか、ということです。
ふたりは、この民族的なボーカルの断片を、単なるバックグラウンド・エフェクトではなく、トラックのリズムとメロディーの核となるサンプリング要素として使うというアイデアを採用しています。
アメリカのハウスDJプロデューサーがまったく思いつかなかった、ロンドンならではの、アフロビート+レゲエ=ハウスという手法が、型破りにマッシブなベースラインと、アフリカンなグルーヴを持つ「Koro Koro(コロコロ)」を生み出したのです。
この曲は、ロンドンで台頭しつつあったアシッドハウスシーンで大ヒットとなり、アメリカでも瞬く間に人気を博します。トニー・ハンフリーズやM.A.W.がヘビープレイし、クラシックとしての地位を確固たるものにしました。
そして「コロコロ」は、ハウスミュージックにおけるプロダクションの意識を変えました。
従来の4つ打ちのパターンから離れ、アフロビートやレゲエにインスパイアされた、複雑で重なり合うリズムを取り入れたこと。
それから、音響に焦点を当てた制作美学が生まれたこと。低音域と音の重みへのこだわりは、英国のレイヴシーン、そしてその後、力強いベースが決定的な特徴となった世界中のダンスミュージック制作に影響を与えました。
また、ハウスミュージックが異なる文化の音を取り込める「メルティングポット」であることを証明し、ハウス・プロデューサーが利用できるサウンド・パレットを根本的に広げたと言われています。
同時期、NYではTodd Terry(トッド・テリー)が、ヒップホップ由来のサンプリングを用いたトラック制作で、初期ハウスミュージックの新たな方向性に挑戦しており、アメリカ、イギリスともに影響しあいながら、次々と新しい手法が生まれていたことが伺い知れます。

