アフロハウス入門 ❷ アフロビート2

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アフロハウスとは、80年代から始まったアフロ・ディープハウスと、2000年代から始まった南アフリカ産ハウス(およびそのフォロワー)を指します。他にも間違いやすいアフロビート、アフロビーツ、アマピアノ、アフロ・テックハウスを解説。

DJでアフロハウスをかける前に、知っておきたいアフロミュージックの歴史を時系列で総まとめ。ハウスに限らず、ワールドワイドで人気のアフロ系がわかる12回連載です。

アフロハウス入門 [目次] 
❶アフロビート1 ジェームス・ブラウンとナイジェリア
❷アフロビート2 カメルーン、ガーナ、マリ、南アフリカ
❸アフロハウス1 80年代のアフロ・ディープハウス
❹アフロハウス2 90年代以降のアフロ・ディープハウス
❺アフロハウス3 アフロ・ディープハウス代表曲30選
❻アフロハウス4 南アフリカ共和国のアフロハウス
❼アフロハウス5 南アフリカ共和国アフロハウスのフォロワー
❽アフロハウス6 南アフリカに影響を与えたハウス3曲
❾アフロビーツ   ナイジェリアのポップミュージック
❿アマピアノ    南アフリカのアマピアノと3ステップ
⓫アフロテック1 テックハウスとアフロテックの歴史
⓬アフロテック2 アフロテックのヒット曲
目次

アフロハウス入門 ❷ アフロビート2

アフロビートとは、ディスコやアフロハウスも影響を受けた、アフリカ産のファンクです。アフロビート編1より引き続き、アフロビートの代表曲を解説します。

➂ Manu Dibango – Soul Makossa(1972)カメルーン

1933年、当時フランス領だったカメルーンに生まれたManu Dibango(マヌ・ディバンゴ)

15歳の時からフランスへ留学し、ジャズに傾向してピアノを勉強。後に独学でサックスを習得し、パリのジャズクラブにて演奏するようになります。

50年代末、ベルギーに移動し、コンゴ出身のアーティストJoseph Kabasele(ジョゼフ・カバセレ)に出会い、彼のバンドAfrican Jazz(アフリカン・ジャズ)に加入。

ジャズと、コンゴ・ルンバを融合した彼のバンドの音楽が、マヌの発想の原点となります。

その後、カメルーンに帰国して音楽活動を進めようとするものの、経済的・技術的な面から本国での活動をあきらめ、パリに戻り、演奏家とスタジオ・ミュージシャンの活動をスタートします。

Manu Dibango「Soul Makossa」(1972/Atlanic)

この「Soul Makossa(ソウル・マコッサ)」の「マコッサ」は、彼の母方であるドゥアラ族の言葉で「(私が)踊る」という意味の、伝統的なダンス音楽。

このマコッサと、ジャズ、ファンクを融合させた曲が「ソウル・マコッサ」です。

この曲がリリースされた72年、舞台は飛んで地球の裏側、アメリカNY、David Mancuso(デヴィッド・マンキューソ)が、ブルックリンにある小さなカリブ音楽専門のレコード屋で、この「ソウル・マコッサ」のフランス版レコードを発見。

The Loftでヘヴィプレイし、それを聴いたWBLSの伝説のDJ Frankie Crocker(フランキー・クロッカー)がエアプレイ。

このディスコとラジオでのプレイにより「ソウル・マコッサ」は大人気となり、翌年にはビルボード・チャート入り。またたく間に世界中に広がり、大ヒットとなります。

この曲は後にMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)「Wanna Be Startin’ Somethin’(ワナ・ビー・スターティン・サムシン)」、Rihanna(リアーナ)「Don’t Stop The Music(ドント・ストップ・ザ・ミュージック)」にサンプリングされ、カヴァーやRemixも多数あり、現在でも愛されている曲です。

人生のほとんどをパリで過ごしたマヌですが、カメルーン人として、そしてアフリカ人としての誇りを持ち、常に母国への愛を音楽で表現してきました。

アフリカのトップミュージシャンとしてジェイムス・ブラウンやフェラ・クティとも共演しており、その音楽性を相互に尊敬し、影響し合っていました。

マヌによってグローバルなポップス界に躍り出た「マコッサ」は、ディスコで流れ、後のハウスにも影響を与えた、カメルーン発のアフロビートです。

④ Osibisa – Music for Gong Gong(1970)ガーナ

1969年に、イギリス・ロンドンで結成された、ガーナ人、ナイジェリア人、カリビアンの混成バンド、Osibisa(オシビサ)

このバンドの特長は、ガーナで流行っていたHighlife(ハイライフ)と、ロック、ファンク、ジャズを組み合わせた、独自のアフロビートを生み出したことです。

ハイライフは古くから親しまれてきた音楽で、ガーナの歴史に紐づいています。

15世紀にポルトガル人が到達したガーナは、奴隷貿易の拠点として栄えた後、金が採れることがわかり「黄金海岸/ゴールドコースト」と呼ばれるようになります。

その後、デンマーク、ドイツ、イギリス、オランダなども来航します。

各国の思惑が入り乱れる中、土着民族によるアシャンティ王国との戦争を経て、1900年「イギリス領ゴールド・コースト」が誕生します。

ほぼ同時にカカオ豆が持ち込まれ、1911年には世界一の生産量を達成。こうしてゴールド・コーストは、金・奴隷・カカオの貿易拠点となります。

この時、地元のミュージシャンが、貿易や植民地軍のブラスバンドを通じてもたらされた西洋楽器に、伝統的なリズムを合わせたことから「ハイライフ」が生まれました。

「ハイライフ」という名称は、1920年代初頭、高級ダンスクラブの外に集まって音楽を聴いていた人々によって名付けられました。

彼らは、クラブ内のエリート層に加わるのに必要な「高額な」入場料とドレスコード(イブニングドレス、シルクハット)を支払う余裕がありませんでした。

このような「ヨーロッパ風の教育を受けた上流階級」のイベントや音楽を、ハイライフと呼ぶようになったのがはじまりです。

WW2の後、疲弊したイギリスから独立の運気が高まり、1957年、サハラ以南のアフリカで初の独立を果たし、国名を「ガーナ」とします。

「ハイライフ」は独立の象徴であり、新生ガーナが生み出したオリジナルでモダンな音楽として、ガーナ国民のアイデンティティとなります。

ハイライフは非常に人気を博し、同じ英語圏のナイジェリアやシオラ・レオネでも定着。

独立を果たした後のハイライフは、日常生活や愛といった従来の歌詞の内容から、未来への希望やアフリカ文化への誇り、自治の重要性といったメッセージを伝えるものも多くなりました。

このハイライフに特有の、ガーナの民族であるアカン族とクパンロゴ族の音楽にインスピレーションを得た「クリス・クロス」リズムと、伝統パーカッションである「Gong(ゴング)」を用いて作られたのが、オシビサの「Music for Gong Gong(ミュージック・フォー・ゴンゴン)」です。

Osibisa「Music for Gong Gong」(1970/MCA Record)

ハイライフらしい幸せなヴァイヴス、力強いホーン隊、エレキギターやサイケデリックなオルガンなど西洋楽器の使用、あらゆるアフロビートの要素をつめこんだこの曲は、世界中で受け入れられ、オシビサをアフリカ音楽を代表するバンドとして認識させるきっかけとなりました。

またオシビサは、1975年「Sunshine Day(サンシャイン・デイ)」もヒットし、NHK FMの「Weedend Sunshine(ウィークエンド・サンシャイン)」のオープニングテーマに使われるなど、日本でも人気のあったバンドです。

⑤ Salif Keïta – Madan(2002)マリ共和国

西アフリカのマリ共和国のアーティスト、「アフリカの黄金の声」と言われるSalif Keita(サリフ・ケイタ)による「Madan(マダン)」。

この曲は、マリ近辺に住む伝統的なマンデ族の音楽をモダンにアレンジし、マンデの言葉で歌っており、かつてこの地に存在した強力なマリ王国の深い伝統と文化に根差しています。

19世紀、小国が乱立していたこの地域に、すでに隣のセネガルを領土にしていたフランスが侵略。1880年には統一し、1890年には「フランス領スーダン」と名称変更されます。

スーダンは現在の北スーダンや南スーダンを含む、サハラ以南のエリアを指す言葉で、もともとアラビア語の「al-Sūdān/黒い人」が語源。

現在のエジプトやモロッコといったヨーロッパに面したエリアにいたイスラム教のアラブ人から見て、肌の色が黒い人々が住んでいるエリアを指していました。

1960年に「マリ共和国」としてフランスから独立し、当初は社会主義政策がすすめられるものの、クーデターによって軍事政権体制へと変更。

軍事紛争やクーデターが相次ぎ、90年代初頭まで不安定な状態が続きました。

サリフ・ケイタは、13世紀にマリ帝国を建国したスンジャタ・ケイタの直系の子孫として生まれました。

正式な王子ではあるものの、アルビノであったため、不運や病気の兆候として忌避され、家族や地域社会から差別を受けます。

貴族は高い地位であり、下層階級である音楽家になることは厳しく禁じられていましたが、それでも音楽を志したサリフは、父親に勘当され、学校を退学させられ、生計を立てるために首都パマコへ出て、ストリートミュージシャンをはじめます。

いくつかの有名バンド在籍を経て、国内情勢不安によりコートジボワールに移住。’84年にはフランスのパリへ移り、本格的なミュージシャン活動をスタート。

‘87年にはデビューアルバム『ソロ』をリリース、好評を博し、ウェイン・ショーターやグレイス・ジョーンズなど、名だたるアーティストとの共演を果たします。

Salif Keita「Madan」(2002/Universal)

「マダン」は、マンデ族の楽器であるコラという21弦のハープリュートや、木琴のバラフォンを用いて、伝統的なパーカッションがリズムを打ち、「マダン=愛」の伝統的な物語を、その部族の言葉で語っています。

‘03年には、同曲のクラブ仕様ミックス「Exotic Disco Mix by Martin Solveig(マルタン・ソルヴェグ)」がヒット。’25年にもアルバムを発表し、現役でマリの音楽を伝えています。

サリフ・ケイタの音楽は、他のアフロビートとくらべると洗練されており、ファンクネスよりも、美しい弦楽器の響きやメロディが強調されています。

しかし、伝統のリズムや楽器を用い、また西洋楽器も導入したアフリカ発の音楽であることから、マリ発のアフロビートと言ってよいでしょう。

⑥ Brenda Fassie – Weekend Special(1983)南アフリカ

アパルトヘイト政策により、白人以外が差別され、周辺国からも国際的にも孤立していた南アフリカ共和国。

逆説的に、その孤立が国内の音楽文化を成熟させ、独自のアフロビートを生み出すことになります。

15世紀、喜望峰にポルトガルが到達。その後、オランダやイギリスが入植。19世紀にオランダがイギリスに正式に譲渡し、イギリス植民地として英語の使用が始まります。

最初はケープタウン周辺のみを領地としていましたが、周辺の部族国家を戦争で破り、南アフリカ全土を掌握。

戦争時から、強制収容所をつくり現地民族を収容する、白人労働者を保護する人種差別法を制定するといった方法で、白人以外の人種を抑圧していましたが、50年代より本格的にアパルトヘイト(人種隔離政策)をスタート。

60~80年代には、より強固なアパルトヘイト政策を築き、露骨な人種主義を推し進め、反対派からのゲリラ戦にあいます。

またイギリスがその政策を非難したため、イギリス連邦を脱退して「南アフリカ共和国」となり、周辺の独立を目指す新興国から孤立します。

その頃、ヨハネスブルグやケープタウンなどの都市郊外には、非白人(黒人、カラード、インド人)のために指定された居住地が設けられ、「タウンシップ」と呼ばれていました。

これは都市中心部の白人とその財産から、非白人層を物理的に隔離することを目的としていました。

このような状況下で、国際的なボイコットが起こり、南アフリカで公演する予定だったアーティストたちはコンサートをキャンセル。

このためタウンシップに住むアーティストたちは、アメリカのディスコやファンクを参考に、シンセサイザーやドラムマシンを用い、ムバカンガ、マラビ、クウェラといった南アフリカの伝統音楽と融合した、新しく独自の音楽を作り始めます。

それは「バブルガム・ミュージック」と呼ばれ、抑圧の中の喜びとして、タウンシップの様々な民族が集い、連帯感を高める媒介となります。

政府により歌詞の検閲がなされる中、民族の言葉を用いて暗号化したり、比喩を用いることで、希望や抵抗のメッセージを伝えました。

Brenda Fassie(ブレンダ・ファシー)は、南アフリカのポップミュージック界の究極のディーバであり「アフリカン・ポップスの女王」とも呼ばれる存在。

アパルトヘイト政策が厳しかった80年代初頭に出た、この「Weekend Special(ウィークエンド・スペシャル)」という曲は、自分が恋人にとってメインのパートナーではなく、週末限定の相手「ウィークエンド・スペシャル」だったことに気づくという、失恋の物語。

Brenda Fassie「Weekend Special」(1983/ CCP Records)

この国で、黒人で女という一番弱い立場にあった女性が、自分のスタイルで心情を歌うという行為は革新的で、多くの女性の支持を得ます。

さらに、存在を軽視されること、無視されることのつらさや切なさを表現していると、性別や民族の差を超えて、広く共感を得ました。

先に独立を果たした周辺国から疎外されたことで、独自につくられたソウルフルなエレクトロ・ミュージックであるバブルガムは、南アフリカのアフロビートであると共に、進化してクワイトとなっていきます。

⑦ Arthur Mafokate – Kaffir(1995)南アフリカ

バブルガム・ミュージックが流行していたころ、南アフリカ政府は数々の失策で、西側から経済制裁を受け、同盟国や領地を失い、国内外でアパルトヘイト反対運動が勢いを増します。

1990年2月、ネルソン・マンデラ解放。’94年には初の全人種が参加した民主選挙が行われ、彼が大統領に就任、アパルトヘイトが撤廃されます。

この選挙のわずか1年後にリリースされ、政治的に物議を醸したのがArthur Mafokate(アーサー・マフォカテ)「Kaffir(カフィール)」です。

Arthur Mafokate「Kaffir」(1995/The CCP Record Company)

タイトルの「カフィール」は、黒人を非人間化するために広く使われた、非常に不快な人種差別的スラング。白人上司にこのスラングを使って反論する、黒人従業員の視点から歌われています。

この曲は、物議を醸したタイトルのために南アフリカの公共ラジオ局で放送禁止となるものの、タウンシップやクラブで大ヒットし、50万枚以上を売り上げます。

アパルトヘイトが終焉を迎えたにもかかわらず、人種差別と人種間の緊張が、日常生活に依然として根強く残っていることを浮き彫りにするこの曲は、新生南アフリカの人々が、それぞれの意見を披露し議論するきっかけとなりました。

この音楽は「Kwaito(クワイト)」と呼ばれます。

これはアフリカーンス語で怒りや獰猛さを表す「Kuwaai」から派生し、タウンシップでクールな音楽を表現するのに「かっこいい」「すばらしい」という逆の意味で使われるようになりました。

‘94年以降、自由な発言ができるようになった南アフリカにて、クワイトは痛烈な社会批判や、ポスト・アパルトヘイト時代の問題を浮き彫りにする歌詞で、人気を集めました。

バブルガム・ミュージックの時代から電子音楽に親しんでいたタウンシップの人々にとって、クワイトはその延長線上にあり、後に南アフリカが、アフロハウス最前線となる土壌を整えたとも言えます。

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