アフロハウス入門 ❽ アフロハウス6

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アフロハウスとは、80年代から始まったアフロ・ディープハウスと、2000年代から始まった南アフリカ産ハウス(およびそのフォロワー)を指します。他にも間違いやすいアフロビート、アフロビーツ、アマピアノ、アフロ・テックハウスを解説。

DJでアフロハウスをかける前に、知っておきたいアフロミュージックの歴史を時系列で総まとめ。ハウスに限らず、ワールドワイドで人気のアフロ系がわかる12回連載です。

アフロハウス入門 [目次] 
❶アフロビート1 ジェームス・ブラウンとナイジェリア
❷アフロビート2 カメルーン、ガーナ、マリ、南アフリカ
❸アフロハウス1 80年代のアフロ・ディープハウス
❹アフロハウス2 90年代以降のアフロ・ディープハウス
❺アフロハウス3 アフロ・ディープハウス代表曲30選
❻アフロハウス4 南アフリカ共和国のアフロハウス
❼アフロハウス5 南アフリカ共和国ハウスのフォロワー
❽アフロハウス6 南アフリカに影響を与えたハウス3曲
❾アフロビーツ   ナイジェリアのポップミュージック
❿アマピアノ    南アフリカのアマピアノと3ステップ
⓫アフロテック1 テックハウスとアフロテックの歴史
⓬アフロテック2 アフロテックのヒット曲
目次

アフロハウス入門 ❽ アフロハウス6

Black Coffee(ブラック・コーヒー)以降、なぜ南アフリカでハウスミュージックなのか、疑問に思った方はいないでしょうか。

❷で紹介した通り、南アフリカにはハウスが流行る土壌がありました。バブルガム・ミュージックやクワイトは、ディスコや初期ハウスを参考にして作っており、ハウスに非常に近い音だったからです。そして❻で解説したように、アパルトヘイト撤廃以降、徐々にハウスが聴かれるようになります。

ただしその歴史の転換点で、3曲、アメリカ産のハウスが重要な役割を担っていました。

⑧ Joe Smooth – Promised Land(1987)

Joe Smooth「Promise Land」(1987/D.J. International)

その1曲めが、1987年に発売されたJoe Smooth(ジョー・スムース)の名曲「Promised Land(プロミスド・ランド)」です。

1987年から、シカゴハウス初の海外ツアー「Jackmaster Tour」がヨーロッパで開催されました。このツアーには、ジョー・スムースのほか、Farley “Jackmaster” Funk(フェアリー・ジャックマスター・ファンク)、Frankie Knuckles(フランキー・ナックルズ)、Ron Hardy(ロン・ハーディ)、Marshall Jefferson(マーシャル・ジェファーソン)などが参加。

このツアーはイギリス各都市で行われましたが、ドイツとベルギーも含んでいました。この英語圏ではない2国の経験で、ジョ-・スムースは、言葉がわからなくても、ハウスミュージックは「ユニバーサル・ランゲージ」であり、ダンスフロアで「愛とスピリチュアルな絆」が共有できる、という感覚をつかみます。

そこで、Motownのヒット曲を参考に、Roland 707と725を用い、アップリフティングでソウルフルなハウストラック「Promised Land」を作曲、リリース。

アパルトヘイト政策をまだ維持していた‘87年の南アフリカで、この曲が流行ります。実際は当時、経済制裁によりアメリカのレコードは輸入禁止となっていたため、DJや音楽好きがイギリスやドイツへ旅行した際にレコードを買い、それをミックステープに入れたり、違法ダビングして、ブートレッグのテープを売っていました。

ブートテープは「Car Boots」で売られました。これはミニバス・タクシーや個人の車に、サウンドシステムを積み、通勤の人々を乗せる時に音楽を流し、その流れている音楽のテープも売るというものです。誰もが人気の曲がかかるバスに乗りたがり、乗車待ちで行列していたといいます。

「プロミスド・ランド」の歌詞は、暴力や抑圧に苦しんでいる人が、いつか解放され、約束の地(Promised Land)にたどり着くだろう、という内容で、これが当時の南アフリカの人々の状況にコミットし、アパルトヘイト撤廃運動のテーマソングになります。

とりわけ「Brothers, Sisters, One day We Will Be Free」というリリックが、アパルトヘイトの差別と抑圧に苦しむ人々の共感を得ました。

⑨ Joe Smooth – They Want To Be Free(1989)

Joe Smooth「They Want To Be Free」(1989/D.J. International)

1980年代、世界中でネルソン・マンデラ解放運動が起こっており、特にイギリスでAnti-Apartheid Movement(AAM)が一大ムーブメントになっていました。

そこではThe Specials(スペシャルズ)「Free Nelson Mandela(フリー・ネルソン・マンデラ)」(1984)や、著名アーティストが参加した「Sun City(サン・シティ)」(1985)、Hugh Masekela(ヒュー・マセケラ)「Bring Him Back Home(ブリング・ヒム・バック・ホーム)」(1987)といった曲が、抗議のアンセムとして作られ、集会やコンサートで使われていました。

スペシャルズは、ネルソン・マンデラの65歳の誕生日を祝うという名目で、ロンドンのAlexandra Palace(アレキサンドラ・パレス)で行われたAAM主催のコンサートに出演したスペシャルズのJerry Dammers(ジェリー・ダマ―)が、コンサートの後、自主的にこの曲を作っています。

南アフリカ国内では、ネルソン・マンデラの名前や写真を出すことがメディアで禁止されていたため、ヨーロッパのメディアが出す非常に限られた知識しかなく、イベント出演時にはジェリーはネルソン・マンデラのことをほとんど知らなかったといいます。

「サン・シティ」は、ブルース・スプリングスティーンのギタリスト、Little Steven(リトル・スティーブン/Steven Van Zandt)が発起人となり、反アパルトヘイト運動を支持するアーティストを集め、Arthur Baker(アーサー・ベイカー)のプロデュースで作られたボイコット・アンセム。Miles Davis(マイルス・デイヴィス)、Gil Scott-Heron(ギル・スコット・ヘロン)、Lou Reed(ルー・リード)、Run D.M.Cなど、総勢20名以上の著名アーティストが参加しています。

ヒュー・マセケラの曲は、刑務所に入っていたネルソン・マンデラ本人が、南アフリカ・ジャズの巨匠と言われるヒュー・マセケラ(1960年よりアメリカに亡命)に当てて書いたバースデー・カード(ネルソン・マンデラの娘のZindziが刑務所から極秘に運んだもの)を受け取って、25年前に会った友人が今でも自分の誕生日を覚えていたことに感動し、作られたものです。

刑務所内の聖歌隊に所属し、石灰岩採石場での苦しい労働の合間に好きな歌を口ずさみ、看守がインターコムで流してくれるジャズのレコードを独房で聴く日々。27年間に渡る獄中生活の中で、マンデラ氏にとって音楽は「生き残るための糧」でした。後に「音楽とダンスこそ、自分と世界を平和へと導いてくれるものだ」と語っています。

1988年、ロンドンのWensbleyスタジアムにて、ネルソン・マンデラの70歳の誕生日を祝う「Free Nelson Mandela Concert」が開催され、世界60か国以上で放送。多数のロックやポップス歌手が出演し、上記3曲も演奏されています。

これらの曲はイギリス・アメリカを中心にヒットしますが、南アフリカでは前述の経緯によりマンデラの名前を出すことが禁止されていたため、国内でリリースされることはなく、ラジオでも禁止されていました。

1985年、Stevie Wonder(スティービー・ワンダー)が、ジーン・ワイルダー監督のロマンティック・コメディ「The Woman In Red(ウーマン・イン・レッド)」のオリジナル曲にてアカデミー賞を受賞しますが、その賞をマンデラ氏に捧げたために、南アフリカではスティービーの曲が全曲、放送禁止になったほど、国内の「マンデラ氏BAN」は徹底していました。

政権が怪しくなってきた1989年、「プロミスド・ランド」の国内ヒットを受け、マンデラ側近とCNNから、ジョー・スムースに新曲制作の依頼が来て、ジョー・スムースは、この「They Want To Be Free(ゼイ・ウォント・トゥー・ビー・フリー」を作曲、リリース。

ジョー・スムースは、この依頼を受けることが自分の使命だと思ったと語っています。リリックは「プロミスド・ランド」よりも南アフリカにフォーカスされており、マンデラ氏の名前も入っています。

As we live and learn, we all desire(生き、学びながら、私たち皆は求めている)、A time and place where life conditions take us higher(人間の営みがより高みへと導いてくれる時と場所を)、Although it seems like Murphy’s Law always reoccurs(マーフィの法則が常に繰り返されているように見えても)、Like the pages torn from history(歴史から引き裂かれたページのように)、Look to the people in South Africa as they stand their ground(彼の地に立つように南アフリカの人々を見よ)、Cause all they want to be is free(なぜなら彼らの求めるものは自由だけだから)

当然ながら、この曲は南アフリカ国内で放送禁止となりましたが、クラブやタウンシップで人気となりました。

ネルソン・マンデラが解放されることになった1990年2月11日には、「プロミスド・ランド」や「ゼイ・ウォント・トゥー・ビー・フリー」が、街でもテレビでも、流れていたといいます。また正確な年月日が不明ですが、ジョー・スムース本人が、マンデラ氏解放後に南アフリカへ渡航し、パフォーマンスをしたと言っています。

⑩ Tribal House – Motherland(1990)

Tribal House – Motherland(1990/Pow Wow Records)

そして3曲めは、❸-①で紹介した、史上初アフロ・ディープハウス「Ma Foom Bey」のWinston Jones(ウィンストン・ジョーンズ)による、別の曲です。

ウィンストン・ジョーンズはカルチュラル・ヴァイブの後、「Tribal House(トライバル・ハウス)」というプロジェクトを始めます。

この名義で90年代に数枚リリースしますが、その中のヒット曲「Motherland(マザーランド)」が、音はディープハウスなものの、非常にアフリカ色と、メッセージが濃い曲となっています。

ヴォーカルを担当している女性シンガーのKaren Bernod(カレン・べルノド)さんが作詞も担当。

フック部分が「母よ、父よ、姉妹よ、兄弟よ。自分を愛せよ、そして他の誰よりも愛せよ。そうすれば、我々は皆、我々を縛る鎖から解放される。」という内容です。

この歌詞は、Motherを “Mutha” 、Sisterを “Susta”など、一風変わったスペルで書かれており、これはAfrican American Vernacular English(AAVE/アフリカ系アメリカ人の俗語英語)になります。

AAVEは独自の文法と音韻規則を持ち、アフリカ系アメリカ人の歴史的経験から発展したもので、よくヒップホップのタイトルやリリックに出てくる、読めそうで読めない、綴りが替えてある英語は、このAAVEです。

歌詞に使うことで、アフリカ系アメリカ人の文化的アイデンティティと連帯感を表現しています。

タイトルの「マザーランド」、繰り返される「アフリカ」のコーラスと合わせて考えると、ディアスポラの末裔であるアフリカ系アメリカ人に向けて、普遍的な愛と結束を強調し、歴史的な「鎖」(奴隷制、抑圧)からの解放を求める闘争へのよびかけを、想起させる内容となっています。

Public Enemyの「Fight the Power(ファイト・ザ・パワー)」や、KRS-Oneの「You Must Learn(ユー・マスト・ラーン)」が1989年にリリースされています。またNYを中心に、Zulu Nation(ズールー・ネイション)やNative Tongues(ネイティヴ・タン)、Five-Percent Nation(ファイブ・パーセント・ネイション)などに代表される、Afro-Centric(アフロセントリック)ムーヴメントが起こっていました。

つまり、この曲が出た’90年、このような強いメッセージを出す時代背景が、アメリカにはありました。(この後、’91年ロドニー・キングさん事件、’92年ロス暴動が起こります。)

‘90年、この「マザーランド」がリリースされたのが1月1日、そして約1か月後、2月11日にネルソン・マンデラが解放されます。

この曲の「私たちを縛る鎖を断ち切る」という歌詞が、アパルトヘイト終結に奮闘する南アフリカの人々の心に深く響き、タウンシップの人気曲となります。翌年の’91年には南アフリカのTusk Musicという会社がライセンスを取り、南アフリカで国内版としても発売されています。

南アフリカの人たちにとって、ハウスは、ヒップなクラバーが聴いているオシャレな音楽ではなく、検閲でまともな歌詞すら書けない自分たちのかわりに心象を代弁してくれる、大切なプロテストソングだったのです。

ジョー・スムースの「プロミスド・ランド」「ゼイ・ウォント・トゥ・ビー・フリー」、トライバル・ハウスの「マザーランド」は、南アフリカのクラブやコミュニティシーンで自然にアンセムとしての地位を獲得し、ハウスミュージックが、政治的変革のための強力な「精神的武器」となり得ることを証明しました。

マンデラ氏解放から4年3か月のあいだも、この3曲は南アフリカの人々を鼓舞し続けます。そしてマンデラ氏が1994年5月10日に大統領になった後、経済的・文化的に余裕ができて、若者向けのラジオ局ができ、ハウスの曲やレーベルを作りはじめ、クワイトのDJたちが徐々にハウスへと移行しました。

もともとイギリスのコロニーで英語圏だったこと、ハウスミュージックの勃興とヨーロッパへの伝播、アパルトヘイト、経済制裁と放送禁止用語、タウンシップでのバブルガム・ミュージックやクワイトの流行…。このような歴史的なタイミングが重なり、南アフリカでハウスミュージックが流行り、国産ハウスが生まれ、スーパーマーケットや空港でもハウスがかかっているという、世界で一番ハウスが浸透し一般的に聴かれる国になりました。

ディスコ時代から「LOVE」程度のメッセージしか発していなかったハウスが、政治的意図を持った強烈なメッセージの曲を出し、それがマンデラ氏解放前後の南アフリカに届いたというのは、あまりにタイミングが良すぎて、まるで作り話のようです。でも実際、このタイミングの符合がなければ、今のSAアフロハウスの流行はありえませんでした。

この史実が偶然の産物なのか、必然の結果なのかはわかりませんが、「なぜ南アフリカでハウスなのか」に答えるには十分なはずです。南アフリカ産ハウスアルバムへのグラミー賞は、たまたまマンデラ氏解放の日に事故に遭った南アフリカ男性ひとりのための賞ではなく、南アフリカの自由のために闘ったすべての人々に与えられた勲章と考えるべきではないでしょうか。

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