アフロハウスとは、80年代から始まったアフロ・ディープハウスと、2000年代から始まった南アフリカ産ハウス(およびそのフォロワー)を指します。他にも間違いやすいアフロビート、アフロビーツ、アマピアノ、アフロ・テックハウスを解説。
DJでアフロハウスをかける前に、知っておきたいアフロミュージックの歴史を時系列で総まとめ。ハウスに限らず、ワールドワイドで人気のアフロ系がわかる12回連載です。
アフロハウス入門 [目次]
❶アフロビート1 ジェームス・ブラウンとナイジェリア
❷アフロビート2 カメルーン、ガーナ、マリ、南アフリカ
❸アフロハウス1 80年代のアフロ・ディープハウス
❹アフロハウス2 90年代以降のアフロ・ディープハウス
❺アフロハウス3 アフロ・ディープハウス代表曲30選
❻アフロハウス4 南アフリカ共和国のアフロハウス
❼アフロハウス5 南アフリカ共和国アフロハウスのフォロワー
❽アフロハウス6 南アフリカに影響を与えたハウス3曲
❾アフロビーツ ナイジェリアのポップミュージック
❿アマピアノ 南アフリカのアマピアノと3ステップ
⓫アフロテック1 テックハウスとアフロテックの歴史
⓬アフロテック2 アフロテックのヒット曲
アフロハウス入門 ❶ アフロビート1
アフロビートとは、その後のディスコやアフロハウスも影響を受けた、アフリカ産のファンクです。60年代からスタートするアフロビート前夜から、アフロビートの代表曲を7曲解説します。
⓪ James Brown – Say it Loud- I’m Black and Proud(1968)

ゴッドファザー・オブ・ソウル。James Brown(ジェームス・ブラウン)がいなければ、アフロビートもディスコもハウスも、存在していなかったかもしれません。ソウルやゴスペルを経て「ファンク」という音楽を生み出した天才、JB。
彼が生きた73年間は、アフリカ系アメリカ人たちにとって激動の時代でした。
50年代から頻発していた、白人による人種差別から引き起こされた数々の事件に端を発し、公民権運動の気運が高まっていた1963年、ワシントン大行進で、マーティン・ルーサー・キング牧師が「I Have A Dream(アイ・ハヴ・ア・ドリーム)」を演説。
1964年「公民権法」が制定され、法的な人種差別が終わりを告げます。
1968年、ジェームス・ブラウンが「Say it Loud- I’m Black and Proud(セイ・イット・ラウド–アイム・ブラック・アンド・プラウド)」を発表。
しかしその4か月後にはキング牧師が暗殺され、白人によるリンチ事件も後を絶たず、各地で暴動が起こり、JBや著名人たちは事態を沈静化しようと努めました。
真の平等には、今まだ現在まで続く長い道のりがありますが、音楽的才能に恵まれた多くのアフリカ系アメリカ人アーティストが、そこで果たしてきた役割は、小さいものではありません。
のちに「Fight The Power(ファイト・ザ・パワー)」にて「Say It Loud(セイ・イット・ラウド)」をサンプリングした、Public Enemy(パブリック・エネミー)のChuck Dなどが出演する、この曲のドキュメンタリー・インタビュー映画が、2024年公開。
様々なジャンルのアーティストが、JBから受けた影響について語っています。
JBは、ブラックネス=ファンクネスという独自のスタイルを築き上げ、アフリカ系アメリカ人たちのマインド&スピリットを鼓舞し、また音楽界でのアーティストたちのポテンシャルを一気に高めました。
その波及効果は絶大で、P-Funk(Pファンク)、Sly & The Family Stone(スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン)、Bootsy Collins(ブーツィ・コリンズ)、Prince(プリンス)、Michael Jackson(マイケル・ジャクソン)など、彼の影響を受けたアーティストは数知れず。
そして、すべてのディスコ・バンドが参照したのがJBです。
Chic(シック)、Earth Wind & Fire(アース・ウィンド・アンド・ファイヤー)、B.T. Express(BTエクスプレス)、Kool & The Gang(クール・アンド・ザ・ギャング)、Ohaio Players(オハイオ・プレイヤー)、Hamilton Bohannon(ハミルトン・ボハノン)、Mandrill(マンドリル)…。
ディスコ時代、JBは不遇の時代を送り、ディスコシーンに登場しませんが、ディスコ・バンドのコアであるファンクネスは、明らかにJBをオリジナルとしていました。
この、まだ偏見が根強く残るアメリカ社会の中で生まれた、アフリカ系アメリカ人の生み出した「ファンク」が、アフロビート誕生のきっかけのひとつとなります。
① Fela Kuti – Zombie(1977)ナイジェリア

アフロビートの創始者、政治活動家でミュージシャンのFela Kuti(フェラ・クティ)。
1938年、フェラはナイジェリアの南西の街、アベオクタに、ミドルクラス家庭の次男として生まれます。’58年、イギリス・ロンドンのトリニティ音楽大学へ進学。トランペットを習得し、バンドを結成。
この間に人種差別を経験し、後の人生に大きな影響を与えます。
卒業後、ナイジェリアに帰国してバンドを本格的にスタートするも、金銭的に苦労します。そこで、Hilife(ハイライフ)という音楽が流行っていたガーナへツアーを敢行。ハイライフを演奏することで好評を博すも、金銭的に厳しい状態が続きます。
‘68年、彼はアメリカツアー発表の席で、自らの音楽を「アフロビート」であると宣言。翌年よりアメリカツアーを敢行しますが、アメリカではアフリカ音楽は人気がなく、さらに人種差別にもあいます。
フェラが失意の中で出会ったもの、それがジェイムス・ブラウンの「Say it Loud- I’m Black and Proud(セイ・イット・ラウド–アイム・ブラック・アンド・プラウド)」という強いメッセージと、ファンクという音楽です。
さらに、イギリスでもアメリカでも差別にあった経験から、マルコムXやブラックパンサーなど、公民権運動で戦っていた人々の思想を勉強するようになります。
アフリカの民族音楽であるJùjú(ジュジュ)やハイライフ、JBのファンクネス、政治的メッセージを重視した歌詞、この融合がアフロビートの方向性を決定づけました。
‘70年にナイジェリア帰国後、アフリカ・シュライン(アフリカの聖堂)という会場にて、新バンド「フェラ・アンド・アフリカ70」をスタート。
真のアフロビートによる快進撃が、ここからスタートします。
過去ナイジェリアでは、15世紀からポルトガルやイギリスの侵略・支配を受け、17~19世紀は海岸部が「奴隷海岸」と呼ばれるほど、大量の奴隷がアメリカ大陸へ送られていました。
もともとイボ族、ヨルバ族、ハウサ族など多数の民族が住み、それぞれの王国や部族国家が存在していたナイジェリアは、イギリスとフランスに分割され、後の1914年に「イギリス領ナイジェリア植民地」として統合されます。
WW2後、ナショナリズムが高まり’54年に植民地から自治領となり、’60年にはイギリス女王を国家元首とした英連邦制国家が成立。’63年には大統領制へ移行し、完全にイギリスから独立します。
しかし地域間の格差から議会が対立し、’66年にクーデターが勃発。壊滅的な内戦後に’75年軍事政権が誕生するなど、独立後のナイジェリアは混乱極まる状況が続きました。
この政治的混乱は、部族間や宗教間の対立をも含み、現在も続いている状況です。
また’56年よりシェルが原油採掘をスタートし、まさに一夜にしてナイジェリアにオイルマネーが流れ込みます。この石油利権が、大規模な汚職やクーデターが頻発する原因となりました。
70年代は「金ぴか時代」と呼ばれ、一部のエリート層が莫大な富を築くと共に、軍事政権による石油産業重視の施策から、電気、水道、医療といった生活インフラの質が低下し、農業や製造業が衰退、圧倒的多数の貧困層は、さらなる生活苦に陥ります。
つまりフェラが自国で音楽活動をスタートした時、人口2%の軍部やその関係者が潤っている中で、98%の貧困層は、まったくその恩恵を受けていませんでした。
腐敗した軍事政権は富を掌握し、人権や法を無視して人民を暴力的に弾圧。圧倒的な金と権力を持った軍部に、人々は何もなす術がなく、口を閉ざし、恐怖と貧困にあえいでいました。
フェラ・クティの「Zombie(ゾンビ)」は、人々を無慈悲に弾圧する兵士たちを「ゾンビ」にたとえ「ゾンビは行けと命令されるまで、行かない」と歌い、痛烈に軍事政権を批判した曲。
この誰も言い出せなかったことを、アフロビートによって堂々と宣言したフェラ・クティは、一般市民にとって英雄的な存在となります。
フェラは70~80年代にかけ、大量のライブ・アルバム、スタジオ・アルバム、海外公演など、華々しくミュージシャンとしての活動を行います。
その一方で、不当逮捕が12回、1000人の兵士による自宅周辺「カラクタ共和国」への軍隊襲撃、不当裁判など、公権力による弾圧が続きました。
‘97年に亡くなるまで、腐敗した政府への批判と、アフリカ人としての誇りを貫き通したフェラ・クティ。「アフロビート」は、強烈な人生を歩んだ彼の、生き様そのものの音楽であり、また政治的手段でもあったと言えます。
② King Sunny Ade & His African Beats – Synchro System(1983)ナイジェリア

「King of Jùjú Music」と呼ばれるKing Sunny Ade(キング・サニー・アデ)。
Jùjú Music(ジュジュ・ミュージック)とは、1920年代から始まった、ヨルバ族の伝統に根差した音楽。
ジュジュは、Dùndún(ドゥンドゥン)と呼ばれる伝統的なパーカッション、伝統的なヨルバの歌唱、エレキギターを特徴としています。
ドゥンドゥンは円筒形のドラムで、両側に動物の皮を張ったドラムヘッドを持ち、人間の話し言葉の音調パターン、特にヨルバ語の3つの主要な音調(低音、中音、高音)を模倣することができると言われているため、英語でトーキング・ドラムと呼ばれています。
これはもともと、遠く離れた村々間で警告や告知を伝えたり、ヨルバ族の儀式やお祭りに使われていた楽器で、1948年からジュジュに使われはじめました。
表題曲の「Synchro System(シンクロ・システム)」は、キング・サニー・アデが率いる総勢18人のミュージシャンがそれぞれ異なる楽器を演奏し、それがシンクロして生み出されるグルーヴ感を意味しています。
この曲はもともと’73年に国内でシングルリリース、大ヒットしており、その時は従来のドゥンドゥンやエレキギターを組み合わせた、オーガニックなサウンドでした。
そして’83年に再録音された新バージョンは、フェラ・クティと密接に関係しています。
まず、フェラ・クティがグローバル・マーケットへの道を切り開きます。アフロビートの登場によって、世界の目がナイジェリアの音楽に集まるきっかけとなりました。
そこで80年代から、フェラのイギリスでのツアーのマネジメントを、Martin Meissonnier(マルタン・メソニエ)というフランス人が担当することになります。
その後、フェラとArista Record(アリスタ・レコード)との契約が、マルタンを仲介して実現するなど、マルタンはアフリカとの仕事が増えていきます。
そのマルタンが、フェラとの仕事でナイジェリアにいた時、交通渋滞に巻き込まれ、偶然にも’73年版「シンクロ・システム」を聴き、すぐにキング・サニー・アデに連絡を取ります。
ちょうどその時、イギリスのIsland Record(アイランド・レコード)が、新しいアーティストを探していました。
アイランドはボブ・マーリーのレコードを発売し、レゲエを世界的にヒットさせていましたが、’81年にボブ・マーリーが亡くなり、「ネクスト・ボブ・マーリー」となる第三世界の音楽のアーティストを必要としていたからです。
マルタンはアイランドに連絡を取り、すでにナイジェリア国内では大スターだったキング・サニー・アデの、インターナショナル版スタジオアルバムをアイランドが出すことが決定、ロンドンにて録音することになります。
この時、マルタンはプロデューサーとして参加し、フェラ・クティのアフロビートで人気となっていた電子楽器とアフリカ音楽の融合を参考に、シンセサイザー、キーボード、ドラムマシンを、キング・サニー・アデのオーガニックサウンドに取り込むことにします。
つまり、新バージョンの「シンクロ・システム」は、フェラとマルタンなしには、生まれていません。
スタジオアルバム「シンクロ・システム」と、そこに収録されているヒット曲の再録音シングル「シンクロ・システム」は世界中でヒットし、ナイジェリアにもう一人の国際的ミュージシャンが誕生。ヨルバ族のジュジュが、世界デビューを果たします。
伝統のジュジュ、反抗のアフロビート、イデオロギー的に対極のふたつの音楽は、ナイジェリアの伝統と歴史を体現していました。
2026年現在、世界を席巻中の「アフロビーツ」は、ジュジュのDNAを受け継ぎ、フェラ・クティのファンクネスを取り入れた、新世代の「アフロビート」と言えるでしょう。

